番外編 アリス*ドッペルドミナント

「ショートケーキか、チーズケーキか…」
どういうわけか、あたしは今、優貴とクルベールにいる。
「愛莉珠はどっちが美味いと思う?」
まだ悩んでいるのか。あたしはため息をついた。甘いものが大好きな優貴は、真剣この上ない顔つきでメニューとずっとにらめっこしている。
「どっちでもいいから、早くえらびなさいよ」
優貴は、うーん、とうなりながらメニューをぱらぱらめくる。あたしは二度目のため息をついて、運ばれてきたプリンス・オブ・ウェールを口に含んだ。クルベールなんて学校からすぐだ。優貴にとってメニューえらびはそれほど重要なことなのだろうか。
「じゃあ俺、これにしよ」
悩んだすえに彼が指さしたのは、極限に甘いと有名なストロベリーパフェだった。


そもそも、これはバスケ部がオフでゆかが永田くんとふたりで帰ると言い出したところから始まったのだ。
いつも一緒に帰っているゆかが、
「今日バスケ部オフらしいから、慎二(永田くんのこと)と一緒に帰るんだけど…」
と言ってきたのは、六時間目が終わってすぐだった。
「じゃあ一緒に帰りなよ。あたしのことは気にしなくていいから」
一人で帰ることぐらい、どうってことはない。あたしは一人で帰ることは気楽でいいと思っているような子だ。けれどゆかは不服そうに、でもぉ、とつぶやいている。そして、教室に入ってきた優貴を目ざとく見つけるなり、おおきな声で叫んだ。
「上岡クンっ、今日オフでしょ? 愛莉珠と一緒に帰ってあげてよ!」
「は? ちょっとゆか!」
状況がわからない優貴は目を瞬かせている。すると、ゆかはかばんから財布を素早く取り出し、白い紙切れをぴらぴらと振った。
「じゃーんっ、クルベールの割引券! 上岡クン甘いもの好きでしょ? 愛莉珠と一緒に食べてきて」
ゆかは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。あたしはげんなりとする。どうしてゆかは、あたしと優貴をくっ付けようとするのだろう。そんな心境も露知らず、お気楽な優貴はクルベールの半券に目を輝かせる。
「まじで? よしっ、愛莉珠行くぞ!」
あたしには、にこやかに手を振って見送るゆかが悪魔に見えた。


真ん中にうず巻く生クリームは、白いお城。それを取り囲む赤い苺は、小人の兵隊。
あたしは、運ばれてきたストロベリーパフェを見て、そんなことを考えた。目の前にいるのがパパなら、「愛莉珠の発想は可愛いな」って言ってくれるのだろうけど、優貴にそんなことを言ってもばかにされるだけだ。優貴は『おとな』を完璧に演じているから。ほんとは『子ども』なのに――『子ども』でいたいのに、『おとな』を演じきっている。
優貴は、ストロベリーパフェという王国をどこから破壊させるのだろう。優貴の手元をじっと見る。ぐさり、とパフェスプーンが突き刺したのは赤い兵隊――苺だった。ふぅん、わりとオーソドックスに壊していくんだ。視線に気付いたのか優貴がこっちを見てきたので、あたしは慌てて目をそらした。
「愛莉珠も食うか? 極限に甘いパフェ」
優貴は、お城と兵隊をごちゃ混ぜにしながら楽しそうに言う。
「いらないわよ。あたしにはショートケーキがあるし」
あたしは定番のショートケーキにフォークをさした。空気をたっぷりと含んだスポンジのあいだに、クリームと甘い苺がはさまっている。あたしの大好きな、クルベールのショートケーキ。黙って食べていると、目の前に座っている優貴が急にわらい出だした。
「なに?」
ぎろっとにらみながら言うと、優貴はおおきな目を細めた。
「愛莉珠って、妙に甘いものが似合うよな」
あたしは、優貴とおなじことを言うひとを知っている。優貴はときどきそのひとと同じことを言う。そのひともおとなのふりをした『子ども』なのだけれど、優貴よりもずっと年上なのに、おとなにはなりきれないでいる。
あたしはショートケーキをちいさく切った。スポンジが、白いお皿の上でぽろぽろとこぼれる。
「優貴って、ときどきあたしのパパと同じことを言うね」
優貴は目を見開いた。きっと彼がそうすることを知りながら、あたしはその言葉を言ったのだ。ほぼ確実な想定。そう考えながら言葉を口にするとき、あたしは自分自身がすごくずるいと思う。
「愛莉珠の父さんって、よく門のとこで待っている背の高いひとか?」
優貴は水を口に含んだ。甘党の優貴が水を飲むということは、やっぱり甘すぎるのだ。赤い兵隊に守られた、白いお城の王国は。
「うん、そのひとがあたしのパパ。外見は立派なおとなだけどね、中身は子どもだよ」
だから、永遠に少女だったママを愛し、永遠に子どもであるあたしを愛している。パパも甘いものがすきだった。あたしに買い与えたミニチュアのアンティークなお城を指差しては、よく「ほら愛莉珠、お城だよ」と言っていた。子どもみたいな、無邪気な笑顔で。あたしも確かにあの洒落たお城はすきだったけれど、あのお城をほんとに欲していたのはパパなのだ。大切なものを、永遠に閉じ込めておくためのお城。幼い子どもがおもちゃをひとり占めするような独占欲が、パパにはある。ママがいなくなってから、その傾向はますます強くなった。
もう二度と、大切なものを失くさないために。
「ふうん。じゃあ、俺と同じだな」
優貴は自嘲的にわらった。あたしはどう答えたらいいのか分からなくて、時間かせぎのためにポケットから携帯電話を取り出した。メール着信あり。それは織部さんからで、今日の晩ご飯はトマトとエビの冷製パスタということだった。
「でも、能天気な優貴には独占欲とかないでしょう?」
あたしはかるい口調で言ってみた。優貴とは幼稚舎から一緒で、初等部や中等部でもときどきおなじクラスになったけれど、彼がなにかに執着しているところなんて見たことがなかった。いつもお気楽で人懐っこくて、クラスでは人気者の地位を確立していた。
顔を上げると、優貴は真剣な顔つきであたしを見てきた。
「俺にも独占欲ぐらいあるぜ」
「えっ…?」
優貴の手をはなれたパフェスプーンが、グラスの中で、からん、と音を立てた。
これ以上ふかく追求しないほうがいい、とあたしの本能が告げている。
おとなびた、どこか冷たさを含んだ表情。こういう表情をする優貴をみるとき、優貴はあたしとおなじ世界に住んでいながらも遠いひとなのだと実感させられる。
ママも、パパを見るときはこんな気持ちになったのだろうか。
「ゆ…」
話しかけようとすると、優貴はそれを制止するように、顔をくしゃくしゃにしてわらった。
「まあ、そんなしけた顔すんなって。俺もいろいろ考えてるってことだ」
伝票の黒い板で、あたしの頭をこつんと小突く。
「ちょっと、優貴!」
「しょーがないから、おごってやるよ」
優貴はわらいながら立ち上がって、レジの方へ向かった。優貴のかばんの、いちごを抱えたプーさんのぬいぐるみがやたら目に付く。ずぼんのポケットから出す財布はブルガリ。おとなと子どもが混同している。
あたしは頬をふくらませて怒ったふりをしながら、全然違うことを考えていた。
かわされた。大切なところは、全部。
あたしは、優貴がとても近いひとだと思うこともあるし、反対に、とても遠いひとだと思うこともあった。優貴はおとなと子どもが混同した世界に生きている。
誰も気付かない不安定な世界はきっと、きれいなんかじゃない。


クルベールを出ると、優貴が高台公園に行きたいと言い出したので、寄ることにした。
「愛莉珠はおぼえてるかー? ここ、初等部一年のときに遠足で来たよな」
高台に行くためのながい階段の途中で、前を歩く優貴は楽しそうに言う。あたしはもう息切れしそうなのに、バスケ部でいちおうエースをやっている優貴は、かるい足取りで階段を上っていく。今まで本人からエースだと言われても信じられなかったけれど、それはこの間の試合で実証されてしまった。ふだんのへらへらした優貴じゃなくて、真剣な顔をしていた優貴は、ほんとに強かったのだ。
「ゆ…優貴っ、ちょっと待って」
あたしは立ち止まって手すりをつかみ、乱れた呼吸をととのえる。
「おい、もうバテたのか?」
優貴はかばんを肩に掛けなおして、ずぼんのポケットに手を突っ込みながら、上った階段をわざわざ下りてきた。
「あたしと優貴じゃ、日ごろの運動量がちがうもん」
きっと睨みながら言うと、優貴はあきれたように肩をすくめた。そして、バテて座りこんでいるあたしの隣までやって来ると、そのままコンクリートの階段にどさりと座った。ながい足が、ちいさな階段で座るにはちょっと窮屈そうだ。
「おっ、こっからでもいい眺めじゃん。愛莉珠も見てみろよ」
新発見、とでも言うように、優貴の声はとても無邪気だった。振り向くと、眼下には夕日に照らされたオレンジ色の町並みがひろがっていた。町の真ん中には時計塔が高くそびえ、商店街ではせわしなく行きかうひとたちの姿が見える。きらきらとひかる噴水のまわりでは、小さな子どもたちが輪になって遊んでいて。光と影でつくられる一瞬の景色は、思いがけない場所で見つけた宝石のようだった。
「ほんとだ…きれい」
「だろ?」
優貴はにかっと笑う。その態度でようやく彼の本心に気が付いたあたしは、なんだか気恥ずかしくなって、思わず目をそらしてしまった。優貴は、単にこの公園に来たかったわけじゃない。あたしに、この景色を見せたかったのだ。ママは夕焼けの景色は感傷的だから嫌いだと言っていた。でも、あたしはこういう景色がきらいじゃない。一日のうちのわずかな時間にしか見られないからこそ、とてもきれいなのだと思う。
オレンジ色に映える景色を見つめながら、あたしはちいさな声で謝った。
「ごめんね、優貴」
「何が?」
優貴は、伸びをしながらあたしを見る。
「あたしに、この景色を見せたかったんでしょう?」
風が吹いて、優貴の長い前髪が揺れる。彼の瞳はいつでもきれいだ。切れ長で、透明で、くやしいくらいに真っ直ぐで。
「まあな。ちっちゃい景色だけど、愛莉珠は気に入っただろ?」
優貴は指でカメラのフレームを作って、見える景色を囲った。私もわらいながら、黙ってうなずく。優貴とここに来れてよかった。ひとりで来ても、きっとこの景色の美しさに気付けなかった。優貴と見るからこそ、振り返った先にあるこの景色がただ純粋にきれいだと思える気がした。
しばらくの間、ふたりとも何も話さなかった。秋風が頬を撫で、辺りはだんだん暗さが増していく。こんな場面、蟻のように群がっていた優貴のファンに見られたら大変だと思いながらも、もう少しこうしていたかった。
「端から見れば、カップルみたいでいやなんだけど」
おどけて言うと、優貴は飄々とした口調で返してきた。
「俺はべつにいいぞ。男ども憧れの愛莉珠サンとこんなことできるのも、俺だけの特権だし?」
「ばかっ」
あたしと優貴は同時に吹き出し、顔を見合わせてわらい合った。
オレンジ色にひかる、階段の途中で。

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