ノスタルジア

窮屈な辺境か、憧れの田園風景かなんだか知らないけれど、都会から遠く離れたこの町であたしは育った。のどか過ぎる、いい町だとは思う。早朝犬の散歩をしているおじいちゃんは、長ったらしい菊栽培の話で遅刻しそうなあたしをわざわざ引き止めるし、学校帰りに商店の前を歩いていると、おばちゃんが出てきて、
「あら、奈緒ちゃん今帰り? ちょっと大根あげるわっ、いい大根があるのよー」
と言って、市場には出回らないような大きくて太い大根を持たせるのだ。あたしは大根の重たさに顔を引きつらせながら、「おばちゃんっ、ありがと」とお礼を言うのが日課。
昨今、日本は情報社会だの格差社会だの言われているけれど、この町はそんなの全然関係ないように動いている。都会では隣人の顔も分からないって言うけれど、この町ではありえない。クラスメイトの親の顔だって思い出せる。
毎朝、あたしは布団を畳んで押入れの二段目に入れ、雨戸をがらがらと開けて「双子山」を眺める。双子山にはいかめしい正式名称があるはずだけど、山がふたつ連なっているので地元の人は単純に双子山と呼んでいる。つんと冷たい澄んだ空気の中、双子山の様子を見て、ああ、山が赤いから秋なんだなと思ったり、もう頂上には雪が積もっていると感心したりするのだ。
この辺りだけ時が止まったような、いい町だとは思う。けれど、あたしは時々怖くなる。この町だけ、流れに置いてけぼりにされたような不安感。テレビのコマーシャルでやっているような新作の映画なんて見られないし、町に一軒だけあるレンタルビデオショップに新作が入ったと言えば、一年前に封切られた映画のビデオだったりする。
だからあたしは、高校を卒業したら山の向こうの都会に行くとつねづね宣言している。白いツーピースの似合う、都会の社会人になるのだと。その話をすると、お母さんは「はいはい」と煎餅をかじりながら適当に答えて、お父さんは「そんなに暇なら俺の仕事を手伝え」と言って、みかん箱を放り投げてくる。この人たちはダメだ。完全にこの町に染まっている。けれど、あたしのこの話には幼馴染みの依(より)でさえ苦笑するのだ。
「奈緒は変わってるねえ」
夕日に焼かれるあぜ道を歩きながら、童顔の依は言った。
「なんで? 都会に行けば最新の映画だって見られるし、服を買いに行くのにわざわざ一時間も掛けなくていいんだよ」
大きな田んぼの中では、頬被りをつけたトモエばあちゃんが慣れた手つきで稲を刈っていた。風が吹くと稲穂が金色のさざ波のように揺れる。安穏とした田舎の景色。こんな景色を見ていると、あたしはいつも胸が苦しくなる。みんな、日本の流れに置いていかれちゃうんだよ。そう言って、町中の人たちを急き立てたい気持ちになった。
「それがこの町の普通だよ。何も、都会に合わせる事ないじゃない」
依は、肩で真っ直ぐに切りそろえた黒い髪を揺らしながら笑った。あたしは複雑な気持ちで、「そうかぁ?」と答える。依だけは同感してくれると思っていたのだけど。このあぜ道は、町にひとつしかない公園までの近道で、あたしたちは何度も通ってきた。この道で転んだ依を背負って帰ったことも、ふたりで歌いながら帰ったこともよく覚えている。泣き虫だった依は男の子たちによくいじめられて、その度にあたしは小さな依を守ってきた。
「でもさぁ、あたしはやっぱりこの町にはいられないな」
あたしは、目の前にそびえる双子山を見る。都会とこの町を隔てるおおきな山を。依はあぜ道に生えている猫じゃらしをぷちんっと取って、「どうして?」と訊いてきた。
「こんなのどか過ぎる田んぼとか見てると、すっごく不安になるの」
依は猫じゃらしを持ったまま、きょとんとする。
「べつに映画とかはどうでもよくって…何ていうか、このままこの町にいたら、自分がだめになっていきそうな気がするの。ぬるま湯のカエルってやつ?」
「奈緒は変わってるねえ」
依は苦笑しながら、さっきと同じことを間延びした声で言った。それは、この町を表すかのような平和な響きで。依もこの町に染まった子なのだ。あたしはため息をついて、紅色の空を見上げる。カァカァと鳴く黒いカラスが空を横切って、双子山に帰って行くのが見えた。あたしの家では今頃、お母さんが味噌汁のダシをとっていて、お父さんはビールを飲みながら夕方のニュースを見ているに違いない。
なんと平和で、ゆるんだ生活だろう。
「けど、奈緒はえらいよね。わたしは、どうしたらずっとこの町にいられるか考えているのに」
猫じゃらしを揺らすあどけない依に、今度はあたしがきょとんとする番だった。
「どうしたらずっとこの町にいられるかって、簡単じゃない。自分がこの町で暮らしていけばいいだけのことでしょ?」
すると、依は首を横に振った。小さな声で「ちがうよ」と言って。
「例えば、さっき稲刈りしてたトモエおばあちゃん。きっと私より先に死んじゃうよね? 私が大人になっても、このままの状態で過ごすなんてぜったい無理なんだよ」
そう言った依は、なんだか一端の大人みたいに見えたのでびっくりする。近くの草むらでは、元気な鈴虫がぴょんぴょん飛び跳ねているのが見えた。この鈴虫も冬までには死んでしまう。このままの状態で過ごすなんてぜったい無理、か。依の言葉はときどき手厳しい。薄々気付いていたのだけれど、あたしの都会への羨望は、ちょっと贅沢が入っているのかもしれない。ありふれた日常への、刺激という名の贅沢が。
「そうだね…」
あたしは使い古された言葉を依に返しながら、いつかこの町を離れていく自分の姿を想像してみた。家の農業は、四つ年上の文兄が継ぐ予定だから大丈夫。依はきっとこの田舎に残って、あたしは都会へ行く。その時、あたしは何を思うのだろう。安穏とした生活と依を懐かしく思うのだろうか。それとも、ゆるゆると締まりのない生活から抜け出せることを喜ぶのだろうか。
双子山のトンネルをくぐって、その先に見える世界を目指しながら。

(080229)
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