番外編  硝子の眼

俺に煙草を教えたのは父さんだった。
父さんは大学病院の外科医で、その世界では有名らしく滅多と家に帰ってこない人だった。
その父さんが、珍しく家に帰ってきた。それはちょうど俺の十三歳の誕生日だった。
「聖ももう十三歳なんだな。成績も優秀だし、医者でも目指すか」
5が並ぶ通知表を見て、父さんは笑った。俺もつられて笑う。テーブルの上に置いてある誕生日プレゼントは、最新のゲーム機とソフト。キッチンでは、父さんの帰宅を喜ぶ母さんが気合を入れて夕飯を作っていた。ハンバーグと揚げ物の匂いがする。
医者の父、優しい母、よく出来た一人息子。
絵に描いたように幸福な家族だ。そらぞらしくて笑ってしまう。
上司や同僚からも真面目だと評される父さんは、実は他所にも女を囲っていて子どももいるらしい。父さんに従順な母さんは、それを黙認し、自分を責めて泣いてばかりいる。俺はそんな両親を見ながら育った。この家に中身なんて存在しない。あるのは、世間体を保つための入れ物だけだ。
「医者を目指すなら、俺がいい病院紹介してやるぞ」
「まだ早いって」
俺は笑顔をつくった。同学年の女子ならすぐに騙せる甘い笑み。父さんは苦笑しながら、お前に期待しているんだよ、と言って煙草に火をつけた。父さんの端整な横顔に、煙草の煙はよく似合う。煙草を吸う人は、すべてを諦めきったような顔つきになる。俺はそんな大人が好きだ。俺の視線に気付いたのか、父さんは、
「聖も一本吸うか」
と言いながら、煙草の箱を投げてよこした。父さんの好きな、マイルドセブン。
「肺ガンにはなりたくないんだけど」
と、あまり嬉しそうな顔をせずに一本抜き取った。表情ならいくらでもつくれる。俺は内心、未知の世界に興味津々だった。吸ってみると、煙がいきなり肺の中に入ってきてゴホゴホとむせた。
「マズい」
父さんは面白そうに唇の端を上げる。
「始めはそんなもんだ。今のうちに慣れとくんだな」
俺は顔をしかめて煙草の火を揉み消した。父さんは慣れた手つきで、灰皿の上に灰を落とす。
「煙草がなきゃ、こんな世の中やってられないぞ」
すべてを諦めきったような顔つきで、父さんは煙草を吸い続けた。母さんの料理の匂いは、煙草のにおいで消されてしまっている。


始めのうちは不快だったものの、次第に煙草の味やにおいは癖になった。コーヒーと同じだ。初めてコーヒーを飲んだときも、こんな苦いもののどこが美味いのかさっぱり分からなかった。けれど、何度も飲むうちにあの酸味や苦さが癖になって、今ではコーヒーを飲まなければやっていけない体質になった。煙草とコーヒーを少しでもきらしてしまうとイライラして、目に映るものすべてが疎ましくなる。いつの間にか、俺はそれらに完全に依存するようになっていた。そうでもしなければ『優等生』なんて続けることが出来なかった。
「聖くんのことが好きなの」
頬を赤らめて、俺に想いを告げる同学年の女子。うつむいている彼女は、今俺がどれだけ冷たい眼をしているか知らない。出来るだけ穏やかな声をつくって、「ごめん」と言う。顔を上げた彼女は、ひどく傷ついた表情をしていた。
それでいい。
誰も俺の中身なんて見てはいない。作り上げた表面だけを見て、彼女たちは「好き」と言っている。ならば、そこから近付かないで欲しかった。
二年生になると、俺は従兄弟の玲二(れいじ)から次期生徒会長、つまり今期の副会長に任命された。頭のいい玲二のことは尊敬していたし、そういう役員をやることは受験に有利になるので歓迎だ。俺が生徒会に入ると、役員に立候補する女子が一気に増えた。玲二は「一石二鳥だ」と言いながら喜んでいたが、俺はそのことも予想済みだった。父さん譲りのこの容姿は女子受けする。そうして役員を増やして、自分の仕事を減らそうと言うのが目論見だった。
腐っていると思った。自分が腐っているのか、それとも周りが腐っているのか。考えても思考は絡まるばかりで、その度に煙草を吸ってそれを遮断する。副会長になると、上級生や下級生からも言い寄ってくる女子が増えた。俺の虚飾に満ちたプライドになんて、気付きもしないまま。何度も告白されたが、俺は誰とも付き合わなかった。そんな甘ったるい感情は、煩わしいだけだった。


二年生の冬には、次の副会長を決めなければならなかった。そのことについて、俺はひどく頭を悩ませていた。今の生徒会に副会長に相応しいと思える人物は皆無だったし、だからと言ってランダムに選んだシンデレラ的な生徒を抜擢するのも、俺の仕事が増えることが確実で嫌だ。どうすれば良いのか、最善の方法がまったく見えてこない。さまざまなパターンを想定しながら、煙草を吸いつつコーヒーを飲んで夜を明かすことが日課になっていた。
つまらない授業を終えた放課後、気分転換に繁華街に繰り出した。ゲームセンターの騒々しい音、クレープの甘ったるい匂い、居酒屋のビラ配り。女子高生が道端に座り込んで喋っていて、スーツを着た金髪の男がぶらぶらと歩いている。どこにでもある、雑多な繁華街の光景。でも、俺はこういった街が嫌いではなかった。
あてもなく歩いていると、前方に面白い光景を見つけた。俺と同じ中学の制服を着た女子生徒と、男子生徒が歩いていたのだ。必死に話しかける男子とは対照的に、髪の長い女子は相手にしていない。痴話喧嘩か、と思っていたが、どうやら違うらしい。付きまとう男子生徒を女子生徒は迷惑がっていた。距離をおいて、どうにか追い払おうとしている。それでも彼は引き下がらない。彼女は立ち止まって眼光を鋭くすると、
「いい加減にして」
と言い放った。
凛とした、強い声だった。
ようやく見えた彼女の横顔は毅然としていながらも、今にも泣きそうに歪んでいた。チャンスだとばかりに、彼は彼女に近づこうとする。その手が彼女の腕に触れそうになった時、俺は思わず声を出していた。
「やめろよ」
男子生徒は、はっとして俺を見る。
「それ以上近づいても、迷惑がられるだけだと思うけど」
俺が同じ学校の副会長だと気付いたらしく、手を引っ込めると逃げるように去っていった。意気地のないヤツ。制服を着崩した、だらしない男だったが。俺はため息をついて、うつむいたまま震えている女子生徒を見る。
「大丈…」
「触らないで!」
震える肩に触れようとした瞬間、彼女は俺の手をはたいた。そして、顔を上げて睨んでくる。
「触らないで」
激しい、拒絶の眼。
眼差しは強いのに、その顔は今にも泣きそうなほど歪んでいて。
正面から見た彼女の顔は、端整でとても美しかった。笑えば華やかなのだろうに、黒く濡れた大きな眼で、俺を真正面から睨みつけてくる。
―――欲しい、と思った。
この、眼が。
風が吹いて、彼女の真っ直ぐな前髪が揺れる。それでも、俺から目を逸らすことはない。
「ナツキちゃん?」
黙ったまま彼女と向き合っていると、後ろから声をかけられた。
「草野さん!」
振り向くと洒落た黒いジャケットを着込んだ男性が立っていて、「ナツキ」と呼ばれた彼女は彼に駆け寄る。そして、その腕にぎゅっとしがみついた。触れらることを、潔癖なまでに厭う少女。そんな彼女に触れられる彼が、ひどく羨ましく思えた。
俺はぐっと拳に力を入れる。
欲しいと思った。あの眼が、あの少女が―――
どんな手を使ってでも。


キスの味はコーヒーの味だと、夏姫は言い張る。なんで?と尋ねると
「聖がコーヒーばっかり飲んでるから」
と、むくれながらも可愛いことを言ってくれる。じゃあ俺はイチゴ味だな、と言うと、今度はキッと睨んでくるのだ。
望んだ夏姫は今、俺の隣にいる。
あれから俺は、彼女の名前は『深沢夏姫』で、一学年下の生徒だということを知った。夏姫の担任から成績も優秀だと聞いたとき、俺の中で次の副会長は決定した。どんな手を使ってでも、あの眼が、彼女が、欲しかった。
三月にいきなり生徒会室に呼び出して、副会長に決まったことを告げると、
――あたしが、ですか?
大きな瞳を見開いて、予想通りの反応をしてくれたのが面白かった。
――うん。
試しに、そのへんの女子生徒なら一瞬で騙せる笑顔で言うと、夏姫の顔は逆に強張った。やっぱり、他の女子生徒とは違う。その瞬間、俺は夏姫を見つけたことにとても満足した。彼女は気高くて、誰にもなびかない。けれど、俺が他の女子と話しているとふいに心細げな表情を浮かべたりする。そんな夏姫が、心から愛おしかった。
父さんは相変わらず帰ってこない。けれど、精神状態が不安定だった母さんは、看護学校時代の友人の勧めもあって、再び看護師として働き出した。そのお陰でだんだんと落ち着いてきたようだ。あの空っぽの家に閉じ込められていた母さんは、ようやく解放されたのだ。
夏姫は俺の彼女になった。今ならば、ためらうことなく彼女に触れることが出来る。それでも、あの眼は俺のものにはならない。強くて美しい、今にも壊れそうなあの眼は、彼女だけのものだ。真っ直ぐなその眼に俺が映っていることが分かるだけで、情けないぐらい嬉しくなる。
出来ることなら、その眼が濁ることのないように、傷つくことのないように。
彼女を、護りたかった。


いちばん傷つけているのは俺なのかもしれないと、気付いていながら。
手放すことなど、もう出来ないのだから。

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