Alice7.乙女の祈り

月曜日の五時間目、あたしは優貴と屋上で授業をサボっていた。べつにサボる気はなかったのだけれど、優貴が「サボろーぜ」って誘ってきたから、そのお気楽っぷりに呆れて付き合うことにした。
あたしは牢屋みたいに張り巡らされた柵の向こうの景色をぼーっと眺めつづけた。ちかくに海があったら気持ちいいのだろうけど、このへんは山しかないからつまらない。優貴は屋上にやってくるなり持ってきた週刊少年ジャンプを読み出した。これが読みたくて授業をサボったんだと思う。海賊の話が好きなんだって。優貴はむかしからジャンプの漫画が好きだ。『スラムダンク』っていう漫画は彼のバイブルらしいし。
「愛莉珠は知ってるか? サボるっていう言葉はフランス語からきてるんだって」
雑学好きな優貴は、ジャンプを読みながら言った。
「ふぅん」
興味なかったけど、いちおう関心があるように答えておく。それだけで満足するのだ、優貴は。訊き返されることなんて何も求めていない。
今頃みんなは、ちゃんと古典の授業を受けているのだろうか。ゆかがあたしと優貴のことでへんな想像をしてないといいのだけれど。古典に関して、あたしはべつに問題ないけど優貴の成績はけっこう悲惨だったはずだ。じっと優貴を見ていると、視線をかんじたのかジャンプをばたんと閉じてあたしに向き直ってきた。
「ここで横山に告られたんだって?」
にやにやしながら訊いてくる。情報がはやい。人懐っこい優貴は顔がひろいから、そういう情報を手に入れるのもはやいのだ。
「だからなに? もちろん断ったわよ」
あたしがつっけんどんに答えると、優貴は「へえ」と言って面白くなさそうな顔をした。
「なんで? 横山は俺と委員会いっしょなんだけどさ、カッコイイしいい奴じゃん」
知り合いだったのか。あたしはため息をつく。子どものあたしはおとなの横山くんに負けたのだ。なんども負けを認めるようなことを言わせないでほしい。情けないから。
「あのひとはおとななの。それも完璧なおとな」
「ふうん。それは厄介だな」
他人事のように言う。優貴はずるい。優貴もはんぶんおとなの女の子たちから逃げていたくせに、そんなことはまるっきりなかったことのように話すのだ。優貴は『子ども』なのに、おとなのふりがとてもうまい。あたしのパパよりうまいかもしれない。あたしはパパや優貴のそうやって強がっているところが嫌いなのだけれど、その気持ちがわからなくもないからこそ、懸命におとなのふりをする彼らを見るのは辛かった。
「優貴はずるいよね。『子ども』なのにおとなのふりが上手なんだもん」
すると、優貴はふっと真剣な顔つきなった。あのバスケの試合のときみたいな表情。あたしはふくざつな気分になる。こんな優貴は苦手だ。なんだか優貴までもが、手のとどかないどこか遠くに行っちゃいそうで。
「でも、これはけっこう辛いぞ」
彼はあたしの目を見て言った。さみしそうな目だった。
「知ってるわ」
優貴とパパはよく似ている。幸せそうにみえて、ほんとはすごく不幸なところとか。でも、パパからは「みたされていない孤独なかんじ」がするのに、おなじであるはずの優貴からはそんなかんじがしなかった。おとなのふりがうまい優貴は、その孤独さえも覆い隠してしまっている。それはすごくかなしいことだ。だって、だれも優貴の気持ちに気付いてあげられないのだから。
優貴は手を伸ばしてきて、あたしの頭をぽんぽん、と撫でた。ごつごつした男の子らしいおおきな手。
「よく分かってるな。さすが愛莉珠」
いつものように顔をくしゃくしゃにしてわらう。あたしは優貴のわらい方がけっこう好きだ。優貴がそうやってわらうときは、唯一子どもらしい部分をさらけ出しているような気がする。あたしはにっこりわらった。髪のセットが乱れたけれど、今日はおこらないことにしてあげる。さっき、優貴は初めて自分のよわい部分をみせてくれた。あたしだけに。それはとてもうれしい出来事だったのだ。


「ただいま、愛莉珠」
家に帰ると、パパがイギリスから帰ってきていた。
「パパ、おかえりなさい!」
抱きつくと、パパは楽しそうにわらった。アルマーニの黒いスーツ。バーバリーのフレグランスの匂い。それらがあって、あたしはやっとパパが帰ってきたことを実感できるのだ。
「愛莉珠のお土産はテーブルの上においてあるから」
にっこりわらって、パパはテーブルのうえを指さした。紅茶の葉っぱが入った缶とスコーンの入った袋のとなりに、ちいさな黄色の箱がおいてある。箱をあけると、出てきたのはグッチのお財布だった。赤と緑色のベルト付きの。ずっと前、あたしがグッチのお財布を欲しがっていたのをパパは覚えていてくれたのだ。パパにお礼を言って、リビングの白いソファーに腰掛けてグッチのお財布をながめた。新しいお財布はきれいだ。傷ひとつなくて、金属の部分がぴかぴかと光っている。
ふっとコーヒーの匂いがした。これはたぶんマンデリン。後ろの方で、がちゃがちゃ、とパパのCDを探す音がする。
「パパ、今日はあたしが弾くわ」
あたしは立ち上がってピアノのカバーを取った。白いピアノはいつでもきれいに磨かれている。スタインウェイ製の特注の白いピアノ。スタインウェイは音がきれいだから好き。
「愛莉珠がピアノを弾いてくれるのなんてひさしぶりだね」
パパはあたしのめずらしい行動におどろいていた。織部さんはいつもこのピアノをきれいに磨いてくれている。「弾くひとがいなくてもピアノは手入れされているほうがいいのよ」って言いながら。織部さんもピアノが弾けるんだって。まだ聴いたことはないけれど、今度うちに来たとき弾いてくれるよう頼んでみよう。あたしは本棚のピアノピースをさぐる。
「パパ、なにが聴きたい?」
訊くと、新聞をめくる音がして、
「『乙女の祈り』が聴きたいな」
とパパの嬉しそうな声が返ってきた。思わず苦笑いする。パパはあたしの得意な曲をわざわざチョイスしてくれたのだ。あたしもちょうどそれが弾きたかったし、今日はそのリクエストに甘えることにする。
『乙女の祈り』のピアノピースは本棚のいちばん端にあった。楽譜をめくると、古い紙のなつかしい匂いがする。この曲の作ったのはパダジェフスカ――二十三歳で亡くなったピアニスト。ママは「パダジェフスカも、きっと永遠の少女でありたかったのよ」と言っていた。ママはこの曲が大好きだった。永遠の少女のための曲っていうかんじがするんだって。ママはあたしに、「『エリーゼのために』なんていうやぼな曲は弾けなくていいから、『乙女の祈り』だけはちゃんと弾けるようになりなさい」と、口癖のように言っていた。そのときは意味がよくわからなかったけど、今ならわかる。
これは、ママとあたしのための曲なのだ。
ひさしぶりに白いピアノをあける。一瞬、ママの匂いがしたような気がした。鍵盤を鳴らすと、ママの愛したピアノはきれいな音を響かせる。
パパの新聞をめくる音がして、マンデリンの香りが漂う幸福なじかん。あたしは深呼吸をして『乙女の祈り』を弾き始めた。
ママとあたしのための、乙女の祈りを。

FIN.

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