Alice6.ゆれる風船

窓から入ってくる秋風で目がさめた。朝からベッドのうえでぼーっとしていると、いつのまにか眠ってしまったようだ。とけいの針は十時半をさしている。窓を閉めようとして立ちあがると、眼下にすすき畑が目に入った。あたしの家はちょうど小さな丘のうえにあって、町全体を見おろすことができる。あたしは窓のそばに立って、しばらくその景色を眺めることにした。おおきな出窓に、レースのカーテンがひらひらと踊る。金色にひかるすすき畑。競うように建ちならぶ洋風のおしゃれな住宅。しばらくなにも考えたくなかった。ゆったりとした幸福なじかん。織部さんは買い物に出かけていて、パパはまだ帰ってこない。そとの景色をながめていると、すこし遠くへ行きたい気分になった。でも、その「遠くへ行きたい」って思えるのは、帰るこの家があるからこそ思えることなのだ。
あたしは再びベッドにたおれた。涼しい秋風がそよそよと入ってくる。秋は嫌いだ。パパとママを見ているときのような、しあわせで切ない気持ちになる。みのりの秋、かなしい季節。このまま眠っても、お昼にはきっと織部さんが起こしにきてくれる。このままいなくなっても、帰る場所はある。秋風はママに似ていると思った。冷たくて、しあわせで、さみしいところとか。
「ママ…」
随分と乾いた声が出た。ママがいなくなったのも――そう、ちょうどこんな季節だった。


真昼の駅が好きだ。奇妙なほどのんびりしていて、まっさらで何もない。駅のホームで本数のすくない電車を待っているじかんはとくに好きだった。平和すぎる。さっき通った改札口の駅員さんさえ、あたしをちらりと見たあと、おおきなあくびをもらしていた。真昼というのは、不思議なくらいやすらかで空っぽのじかんなのだ。
電車の音も、こころなしか鈍い。朝の通勤電車なんてすごく急いでいるかんじがするのに、真昼の電車はゆっくりとなだらかに進んでいるかんじがする。速度はおなじはずなのに、時間によって感じ方はこんなにもちがう。あたしは二つ先の駅で降りた。このへんに、すごく気になっていたお店があるのだ。改札口を出て、目的地までもくもくと歩く。途中、携帯電話で時間をたしかめた。ゆかと一緒のドコモのパールホワイト。きれいな色だからなかなか気に入っている。携帯電話はべんりだ。ひとりでも、携帯電話があればひとりじゃない気持ちになれる。角をまがると、目的のお店が見えた。レンガ造りの小さなお店。おしゃれなカフェカーテンが小窓にかかっている。レンガで縁取られた花壇にはコスモス。金色の大きな取っ手のついた茶色の扉が、あたしの好奇心をかきたてる。窓から中をのぞくと、カウンターの奥にはフランス人形が飾られていた。新しいお店に入るときって、ちょっぴり緊張する。デパートのお店なら扉がないから入りやすいけれど、こういう閉鎖的な個人のお店に入るのは勇気がいる。あたしは意を決して、ふるめかしい扉の金色の取っ手をにぎった。からん、からん、と愛らしいベルが鳴る。お客さんがけっこう多いのにはびっくりした。カウンターのスツールに腰掛けると、ポニーテールの快活そうなお姉さんがやってきた。
「いらっしゃいませー。メニューはお決まりですか?」
あたしはメニューをながめて、ザッハトルテとオレンジペコを頼んだ。
「ザッハトルテと、紅茶はオレンジペコですね。かしこまりました」
カウンターに水の入ったグラスを置き、厨房に入って行く。にこにこした笑顔が印象的なお姉さんで、どうしてそんなに楽しそうなのか、あたしはちょっと不思議に思った。接客業は笑顔がたいせつなことくらい知っている。けれど、あのお姉さんの笑顔はあきらかに、なにか面白いものを見つけたときの顔だった。店内をぐるりと見わたすと、会話に夢中なおばさんや、ケーキを食べている女の子たちが目に入る。ゴシック調の優美な飾りのついた棚。ピアノを弾く女の子が描かれた油絵。小さい薔薇柄のクッションと壁紙。少女趣味だなあと感心していると、あの快活そうなお姉さんが戻ってきて、ザッハトルテとオレンジペコをあたしの前に置いた。
「ごゆっくりどうぞ」
あたしはさっそくザッハトルテにフォークを入れる。外はさっくり、中はしっとりでおいしそうだ。口に入れるとチョコレートの濃厚な味がひろがる。おいしい。チョコレートの味に深みがある。ここなら味に厳しいゆかも満足してくれるかな。その時、クッキーの入った籠があたしの前にコトリ、と置かれた。何事かと思って、カウンターの向こうにいるひと癖ありそうなお姉さんを見上げる。
「ふふっ。あなた可愛いから、これはサービス」
お姉さんは言い、にっこりわらう。あたしは意味がわからなくて目を瞬かせた。そんなサービス、聞いたことがない。
「ありがとうございます…」
いちおうお礼を言うと、そのお姉さんは、いいのよ、と言ってまたほほえんだ。このひとのわらい方はママに似ている。やわらかいけど、どこかひんやりしているわらい方。
「あなた、名前はなんて言うの?」
尋ねながら、お姉さんは白いシャツの襟元をなおした。ほそくて華奢な鎖骨。喉のうすい皮膚も、おとなの女っていうかんじがする。このひとにはいやらしくない清潔な色気があった。こういうひとって、めずらしい。
「愛莉珠です」
お姉さんは目をみひらく。
「あら、じゃあ樹理亜のお嬢さんかしら?」
どきっとした。他人の口からママの名前を聞くなんて、あまりにもひさしぶりだったから。あたしはフォークをお皿のうえに置いた。胸がどきどきする。ママの名前を聞いただけで、どうして苦しくならなきゃいけないんだろう。紅茶を口に含もうとすると、カップを持つ手が小刻みにふるえた。
「ママを…知ってるんですか?」
お姉さんはあたしの動揺ぶりにおどろいたのか、心配そうな顔で、大丈夫? と訊いてきた。大丈夫です、と答えるとお姉さんは話を続けた。
「ええ。この店の少女趣味な外観に惹かれてやってきたんですって。中ではこんなさばさばしたあたしが働いているから『せっかくの雰囲気が台無しよ』って怒っていたけどね」
お姉さんは明るくわらった。とてもママらしい話だ。ママは完璧に永遠の少女だった。だから、少女趣味にも完璧を求めずにはいられないひとだった。白いピアノ。金縁のティーセット。薔薇庭園。それらもすべてママが所望し、外国からも取りそろえた少女趣味の代物だった。
「あの子ね、娘ができたら名前はぜったい『愛莉珠』にするって言ってたのよ。それであなたが樹理亜の娘だってわかったの。でも、名前を聞かなくてもなんとなくわかったわ。だって愛莉珠ちゃんと樹理亜は、顔も雰囲気もそっくりだもの」
このお姉さんが、さっきからなにか楽しいものを見つけたようにわらう理由がわかった。ママとそっくりなあたしがやってきて、お姉さんはママとまた会えたような気がして嬉しかったのだ。樹理亜とそっくり――あたしは何度もそう言われてきた。ほかのひとなら、ママとそっくりなあたしと会うことでママに会えたような気になれる。でも、あたしはママと会えないのだ。あたしがどれだけ『子ども』でいても、ママがどれだけあたしを愛していても、もう会えない。
お土産にクッキーをもらい、とぼとぼと家路に着いた。あのお店は『アリー』というらしい。それはアリスの愛称だと、いつかママが言っていたことを思い出す。駅のホームであたしはほんとに泣きそうだった。行楽帰りの家族連れの声を聞いては、またかなしくなる。あたしはここのところ情緒不安定だ。他人の口からママの話を聞くのはもう嫌だった。胸が苦しくなって、ふくらみすぎた風船みたいに、はりさけそうになるから。


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