1. 苺と珈琲の関係

中間テストの答案を見せると、ママはりんごの皮をむく包丁をとめて、点数をじっとながめた。
ふつうは親にテストの答案を見せる時は緊張するっていうけれど、あたしはべつに緊張なんてしない。ママに対して、緊張を必要としないのだ。
五教科すべての点数に目を通したあと、ママはあたしの顔を見てほほえんだ。
「さすが夏姫(なつき)ね。すばらしいわ」
国語98点。数学95点。赤いペンの文字が、答案用紙におどる。
あたしは黙ってうなずき、紺色のナイロン製のかばんから無造作にプリントを取り出した。
「これに親の感想を書いて提出、だって」
ママは、面倒ねえ、とつぶやきながら、またりんごの皮むきに取りかかる。あたしも、ほんと、と返事をしながら、髪をくくっていた黒いゴムをとった。長い髪の毛がぱらぱらと肩におちる。校則で、肩より長い髪はくくらなければならないのだ。規律なんて、堅苦しくていやになる。
あたしは白いお皿にならんだりんごうさぎをつまんだ。
「夏姫の髪は長いからきれいなのに。いっそ、茶色に染めて先生おどかしちゃえば?」
ママはけたけたとわらいながら言った。
「そうできれば楽なんだろうけど」
あたしはセーラー服の白いネクタイをとった。あたしは型にはめられた人間だ。型にはめられることは大嫌い。けれど、型にはめられていない自分なんて知らない。
ストロベリィ・ガムを取り出し、銀紙を開いて口の中にガムを放り込む。あまったるく広がっていく人工甘味料の味。わざとらしいイチゴの香り。パッケージは毒々しいほどのショッキングピンクで、アメリカ菓子を思わせるポップなイチゴのイラストが描かれている。小学生のころ、コンビニでこのガムが欲しいとねだったとき、ママはきれいな顔をすこしゆがめた。
あたしの中で、この味はいつしか依存へと変化していた。一日一箱は余裕で食べてしまい、切らしてしまうとイライラして落ち着きがなくなってしまう。
ストロベリィ・ガムは、あたしに煙草やお酒とおなじ効果をもたらしているのだ。


キスの味は、コーヒーの味。
放課後、あたしは学校の裏庭で黒猫に餌をあげていた。
ジュリエット、と名づけた黒い猫は、今やすっかりあたしに懐いている。ジュリエットは首に巻いた赤いりぼんに、コロコロとよく音が鳴る鈴をつけている。野良猫とは思えないほどつやつやした黒い毛に、おおきな瞳。ひとりぼっちになると「なぁ」とあまく鳴いて、通りすがりの人の関心をひきつけている。この猫はあたしよりも世渡りがうまいかもしれない。
あたしは、ジュリエットという名前をとても気に入っていた。幼い恋におぼれて死んでいった、愚かくも愛おしい少女の名前。恋に焦がれて死んでしまうなんてどうかしている。でも、ひたむきに突き進むことしか知らなかった彼女は、こんなこみごみとした世界で生きている人間より、ずっとずっと幸福にも思える。そういう意味で、中一の夏に読んだ『ロミオとジュリエット』は、なかなかに衝撃的で考えさせられる作品だった。
「夏姫」
校舎の二階の窓が開いて、聖(ひじり)が顔を出してきた。
「もうすぐ会議が始まるけど」
「わかった」
あたしは残りのキャットフードをばらまき、聖の顔も見ずにこたえる。すこし間おいてから、がらがらと窓のしまる音がした。聖はなにか言いたかったのだろうか。けれど、校内では何の関係もないふりをするのが暗黙の了解だ。
かばんを持って立ち去ろうとすると、ジュリエットは瞳をうるませて「なぁ」と鳴いた。
世渡りがうまい猫。
あたしは思わず足をとめ、苦笑しながらもジュリエットの頭をなでた。


生徒会の会議はつまらなかった。
たいしてやるべきこともない十月後半は、校内の美化運動や地域の清掃活動に力がそそがれる。やたらと校内美化について熱弁をふるう先輩たちは、何だか見えない壁を一枚はさんだ向こうがわの人たちのようにさえ思えた。卒業する前に、いろいろと自分たちの功績を残したいのだろう。魂胆がみえみえだ。
「夏姫。つまらない会議だったろうけど、退屈そうな顔をするのはよくないよ」
生徒会の役員が帰ったあと、広い生徒会室に残っているのは、会長の聖と副会長のあたしだけだった。
この学校の生徒会はへんだ。三年生の会長が、副会長に適切だと思える人物を二年生から選ぶ。その二年生は、三年生になると自動的に会長へと昇格する。いわば選挙なしで会長が受け継がれていくのだ。
「だって、ほんとにつまらなかったんだもん」
あたしは冷えた机に突っ伏した。
今年の三月、あたしは全く面識のなかった聖から副会長に大抜擢された。あたしは自分が副会長に「適切だと思える人物」とは思えない。けれど会長の指名は絶対で、拒否する猶予もなくあたしは副会長という地位に就かされてしまった。当時は聖を本気でうらんだものだ。
コーヒーを沸かす聖の横顔をみる。すっとした目鼻立ちに、透き通りそうな白い肌。この人はどうして無駄にきれいなのだろう。人の外見と内面は必ずしも一致しない、ということをあたしは彼に出会ってからようやく信じるようになった。それがいいことなのか、わるいことなのかはわからないけれど。
コーヒーが沸いたらしく、聖は目で、飲む?と尋ねてきた。あたしはいらない、と首を横にふる。残念ながら、あたしは聖のようなコーヒー依存者ではなかった。コーヒー依存者の聖は、コーヒーがないと生きていけないらしい。以前、「煙草に依存するより健康的だろ?」と、あまく微笑しながら言ってきた。胸ポケットに、煙草の箱を入れたまま。この人が依存するものは、ほんとうにたくさんある。
「依存って、もとから不健康じゃない」
思い出してつぶやくと、何のことを言っているのかわかったらしい聖は、コーヒーを飲む手をとめて苦笑した。わらっているのに、その目は妙に真剣だった。
「夏姫のそういうとこ、好きだよ」
そう言って、唇を重ねてくる。あたしはいつものように、無言でそれに応じる。
キスの味は、にがいコーヒーの味。あまずっぱいレモンの味なんて嘘だ。
聖があたしを副会長に選んだ理由。それは、あたしと繋がりが欲しかったから。なんて貪欲で、正直な理由だろう。
あたしは、聖のそういう所がたまらなく好きだ。


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