2. 黒猫の愛するもの

仕事に行く時のママは、とてもきれい。イヴ・サンローランの香りがする。
「じゃあ、あとはよろしくね」
ママはシャネルの黒いバッグを持ち、ぼんやりとテレビを見ているあたしに声をかけた。ママの仕事用のバッグは、持ち手の部分が金色の鎖でできている。ママによると、そのつめたい金属に触れるだけで、仕事モードに切り替われるそうだ。
「うん。行ってらっしゃい」
あたしはママの顔を見る。ママの仕事用のメークは、けっこう薄い。それでもママがとてもきれいに見えるのは、自分をきれいに見せる方法を知っているからだ。そういうのは誰かに教えられることではなくて、自分で経験して身に付けるしかほかにない。
「ちゃんと戸締りしてから寝てね。朝ごはんはシリアルにりんごと…」
ママは丁寧に塗り上げられたみず色のつめを指折り数えはじめた。あたしはむっとする。ママは、一人娘のあたしに対して異常に過保護なのだ。
「わかってるよ。お弁当は冷蔵庫のなかで、洗い物は洗濯機に入れるんでしょ?」
あたしは近くにあったテレビガイドをめくった。つまらない。どうして夜は、ばかみたいに盛り上がった番組しかないのだろう。
「さすが夏姫ね。すばらしいわ」
ママはにっこりわらって、あたしの髪をなでる。昔から、ママは仕事に行くときには必ずそうしてあたしに触れた。あたしはかなしくなる。ママの中では、あたしは何一つ成長していないのだ。託児所の玄関でぽつんと、闇夜に颯爽と溶け込んでいくママを見送っていた、あの時から。
「じゃあ、行ってきます」
カツカツ、とママのピンヒールが鳴る音がして、玄関の鍵が、がちゃり、と閉められる。あたしはテレビのボリュームを上げた。タレントのわらい声が大きくなって、ブラウン管の中の世界がさらにむなしく映る。ママはあたしを閉じ込めるのが好きだ。あたしにはなるべく外の世界を知って欲しくない、とも思っている。ママの狂った閉鎖的な世界を共有できるのはあたしだけだから。
けれど、いつかはあたしもこのゆるやかに渇望した檻から飛び立つ日がくる。それは必然で、誰にも止めることはできない。だから、ひとりになるとふと考えてしまう。
そのときママは、どうするんだろう、と。


「夏姫ちゃんって、猫みたいだよね」
体育の授業中、50メートル走の順番を待っていると、クラスの女の子たちが話しかけてきた。
「そう?」
あたしはそっけなく応える。すると、彼女たちは大真面目な顔でうなずいた。
「うん。目も大きいし、堂々としているところとか、すっごく似てる」
よくもまあ、こんな歯の浮くようなセリフを言えるものだ。彼女たちは純粋な瞳をきらきらさせる。視界の端では、結衣が必死にわらいをこらえているのが見えた。空気が乾燥しているせいか、無性にのどが渇く。ストロベリィ・ガムが欲しい。
「ねえ、夏姫ちゃんは聖さんとは何もないの?」
「何もないけど」
即答する。そう言うと、彼女たちは決まって残念そうな表情をするけれど、本心からこぼれる嬉しさは隠せていない。漫画のようにあたしたちがくっ付かない失望と、憧れの「聖さん」に彼女がいないことの喜び。乙女ゴコロはほんとうに複雑だ。
あたしは靴紐をきつく結びなおした。何もない、というのは大きな嘘。けれど、残念ながらあたしと聖は、彼女たちが望むようなきれいな関係じゃない。
白いスタートラインの前に立つと、あたしはいつも清々しい気持ちになる。まっすぐに、前だけを見すえて。目標は7秒台。自慢じゃないけど、あたしは走るのがけっこう速い。


「あははっ!」
誰もいない体育倉庫で、わらいをこらえきれなくなったらしい結衣は大きな声でわらい出した。あたしはラインマーカーを片付けながら結衣をにらむ。体育倉庫は、石灰のほこりっぽいにおいが充満している。
「結衣」
「だって、おっかしいじゃん。あの子ら夏姫のこと買い被りすぎ」
うけるわぁ、と言いながら、あかるい茶色の髪をかきあげる。結衣の髪の毛はほんとうに痛んでいる。痛々しいぐらい。あたしはそんな結衣を無視して、体育倉庫に鍵をかけた。ひとしきりわらった結衣は、わらい疲れたようにため息をつく。
「夏姫、見た目は完璧な美少女だし。そりゃ憧れられても仕方ないけど」
ピアス、濃いメーク、脱色した髪の毛。結衣は「校則違反は当たり前」だと公言している。
だから、あたしには結衣がとても凛々しく見えることがある。彼女は自由なのだ。自由で素直だからこそ、つまらない日常に飢えている。
「ああいう子たちって、見かけでしか判断出来ないのよ」
呆れ気味に言うと、結衣はきゅっと目をほそめた。マスカラを重ね塗りしているせいか、やけに睫毛か濃くはっきりと見える。
「夏姫のそういうトコ、いいねえ」
あたしたちは、昼休みが始まったばかりで閑散とした運動場を横断する。いつも思うのだけれど、誰もいない運動場って砂漠に似ている。強い風が吹いて、砂が宙に舞い上がった。
「昨日の夜は何してたの?」
昨日の夜のつまらなさを思い出し、あたしは何気なく結衣に尋ねた。結衣はにっと笑う。
「聞いて! 昨日はご飯食べただけなのに、2万ももらったの」
こういう時、あたしはどういう表情をしたらいいかわからなくなる。
「ふうん」
「たまぁにいるんだよね、そーいうヒト」
結衣があたしに望んでいることはわかっている。共にはしゃぐのでもなく、とがめるのでもなく、ただ結衣の話に相槌を打ってあげればいいのだ。あたしは他人に心の中に立ち入られることが大嫌い。だから、こうして結衣の心の中にもなるべく立ち入らないようにしている。けれど、心の底に言い表せない罪悪感が残るのも確かだった。
「あーぁ、次の授業ダルいって」
痛んだ結衣の髪が、風にゆれる。傷つけることでしか、自分を保つ方法を知らない結衣。
あたしのまわりには、どうしてこうも自傷的な人ばかりが集まるのだろう。


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