18.陽だまりの苺

午後八時三十分。
テレビを見ているあたしの後ろで、ママは出かける準備をしている。白いジャケットに、黒いタイトなスカート。ほそい手首にイヴ・サンローラン香水をふって、銀色の華奢な腕時計をまきつける。そして鏡を見すえてから立ち上がると、金色の鎖がついたシャネルのかばんを手に取った。
「明日はゴミの回収日だから」
うん、とテレビを見ながら答えると、ママは蛇口をひねって水をコップ一杯ぶん飲んだ。
「あとは頼んだわ」
そう言うと、ママはかばんを肩にかけてリビングを出て行く。颯爽と。あたしの顔も見ずに。
――さすが夏姫ね。すばらしいわ。
出かけ際にそう言うことも、あたしの髪をなでることもなくなった。変わらないのは、ピンヒールがコツコツと地面をたたく音だけ。その音を聞きながら、あたしは泣かないようにテレビ画面を睨んだ。画面には、つまらないバラエティ番組が映し出されている。タレントのオーバーなリアクション。ひどくあかるい照明に、観客の大きなわらい声。そのすべてがむなしくて、あたしは耳を塞ぎたくなる。
どれだけかなしくても、ぜったいに泣かない。ママとの世界を壊したのは、ほかの誰でもない、あたしなのだから。
もう、ママは以前のようにはわらってくれなくなった。


冬休みはつまらなかった。長い休暇が楽しかった思い出なんてないけれど、今年の冬はとくに退屈だった。
冬休みの間、あたしは何度か学校へ行った。ジュリエットに餌をあげて、そのあとは決まって生徒会室に足をむけた。誰もいない生徒会室は、ひんやりとしていてうす暗かった。ふだんはにぎやかなのに、誰もいないときは不気味なほどしずか。とくに用事もなかったあたしは、資料を整理して、部屋を掃除して――それでもすることがないときは、そこで宿題を片付けたりした。思えば、生徒会に入ってもう一年になるのだ。
一年。それは気の遠くなるほどの時間を表す言葉でも、実際はあっという間の時間だった。あたし以外の生徒会の役員はみんな三年生だから、また一から選挙しなおさなければならない。あたしは自動的に会長になるけれど、すべてを一から始めなければならないことは億劫だった。
宿題をすべてやり終えて、生徒会室の机に突っ伏してみる。机は相変わらずひんやりとしていて、あたしはこの冷たさが好きだった。
思い立って、いつも聖が座っていた机の先端の席にも座ってみる。
そこは滞りなく全員を見渡せる場所だった。独立した会長の座席は、いやでも人の上に立っていることを感じさせられる。さみしい場所。聖もこの席であたしとおなじようなことを感じていたのだろうか。この席にいると、何に気を許せばいいのかわからなくなって、不安ばかりが募っていく気がした。途方に暮れそうになったあたしは、ぎゅっと目を瞑る。
ああ――やっぱりあたしには、聖と言う存在は大きくて、温かかった。
だから、聖のいなくなったこの部屋はこんなにも寒い。孤高の会長の席は、あたしを拒絶するかのように冷たいまま。


冬休みが明けて、新学期がはじまった。あたしはここのところ、よく眠れていない。もとからよく眠れる体質ではなかったけれど、最近そのひどさが増している。眠りかけても、またすぐに目覚めてしまうのだ。寝ては起きての繰り返しで、暗い夜がいつもより長く感じられる。体内時計が狂っているのか、脳が眠らないように働いているのか。よくわからないけれど、こんな状態が続くのなら、もういっそ二・三日は目覚めない深い眠りにつきたい。死んだように眠りたいと思った。
そんな不安定な睡眠を繰り返していると、気がつけばもう朝の九時半になっていた。完全に遅刻。あたしはのろのろとベッドから抜け出して、壁にかかる制服を手に取った。
冬休みはつまらなかったけれど、色んなことがあった。
年が明けてすぐ、あたしは香帆ちゃんに会いに『ジュエリー』を訪ねた。ひとりでやって来たあたしを見た香帆ちゃんはおどろいていたけれど、それからすぐに、にこりとわらって、
「よろしい。なんか吹っ切れたような顔してるわ」
と言った。香帆ちゃんによれば、秋頃に会ったあたしは、もやもやとした顔をしていたらしい。吹っ切れたような顔、と言われて心がようやく軽くなった気がした。自分でも思うのだけれど、あたしは今まで色んな人のことを背負いすぎていた。そう言うと、香帆ちゃんはきれいな顔をやさしくほほえませて、
「じゃあ、これからはなっきが自分で歩くばんね」
と言ってくれた。その日、香帆ちゃんがつくってくれたのは、パープルのマニキュアにシルバーのラインストーンの入った、大人っぽい雰囲気のネイルだった。
始業式の数日前には、結衣と遊んだ。あたしたちが遊ぶと言っても、マクドナルドでご飯を食べて、街をぶらぶら歩くだけなのだけれど。いつものようにMサイズのポテトを割り勘してハンバーガーを食べていたとき、結衣は唐突に言ったのだ。
「あたし、高校は単位制行こうと思ってんの」
あたしは一瞬、なんのことだかわからなかった。結衣がもう高校のことを考えているなんて、思いもしなかったから。
「単位制?」
あたしがおどろいて尋ねると、相変わらず化粧の濃い結衣は、済ました表情で答えた。
「そ。じゃあ、いっぱいバイト入れられるじゃん?」
急な話すぎて、あたしは言葉に詰まってしまった。そんなあたしを見て、結衣は可笑しそうにけらけらとわらう。脱色した長い髪。ラインを濃く引いた目のふち。ファンデーションを塗った肌。
「ちょっと、あたしがバイトするのはヘンみたいな顔されても、困るんですけど」
「…結衣もちゃんと考えてるんだなあって思って」
「しっつれー」
結衣はむっとした表情でそう答えると、ハンバーガーにかぶりついた。濃い化粧で素顔を隠している結衣だけれど、ハンバーガーにかぶりつく表情は妙に幼くて、思わずわらってしまう。
「なによ?」
結衣はキッとあたしをにらんできた。
「頑張ってね」
そう言うと、結衣は頬をほんのり赤くして、ハンバーガーを食べることに集中し始めた。耳には相変わらず大きな赤いハートのピアスがついていて、ほそい指には指輪がいくつも付いている。ひねくれた親友。それでも、あたしは結衣の前向きな発言が、心から嬉しかった。


スクランブルエッグとトースト、牛乳の朝食をとり、生地のあついグレーのダッフルコートを着込む。それから白いマフラーを首にぐるりと巻きつけ、制定かばんを持って玄関の扉をあけた。外は相変わらず身震いするほど寒いけれど、日ざしはまぶしい。あたしはコートのポケットに手を突っ込んで、通学路をゆっくりと歩いた。
街路樹の葉は落ち、枝が冷たい空気にむき出しになっている。車のフロントガラスには霜。あたしは思い立って、はあっと息を吐いてみる。すると、目の前に白い気体がもくもくと浮かんだ。冬の町はしずか。すべての生き物が、暖かい場所で身をひそめているみたいに。信号機が点滅していたので、すこし足を早めて横断歩道をわたる。横断歩道をわたれば、学校はすぐそこ。今から行けば、二時間目には間に合うだろうか。そんなことを考えながら、きれいにコンクリート舗装された歩道を歩く。角を曲がって顔をあげると、反対側からはおなじ遅刻仲間が歩いてきていた。
――聖だ。
黒いコートのポケットに手を入れ、憂いを帯びた表情で白い息を吐く。長い睫毛。透けるように白い肌。それは中学生と言っても、こわいぐらいに大人びていて、不覚にもあたしは彼に見とれてしまう。聖はとても大人びているけど、一方で、もう既になにかをあきらめている気配があった。この歳で物事を達観できてしまうなんて、かなしいとしか言えないのに。
聖はほんとうに無駄にきれいで、孤独だった。誰よりも。
じっと見ていると聖もあたしに気がついたようで、あたしは苦笑いしながら近付いた。
「おはよう、夏姫」
「おはよう、不良会長さん?」
顔をのぞきこみながらおどけて言うと、聖は可笑しそうにわらった。聖の顔をこんな間近でみるのなんて、すごく久しぶりだった。受験勉強のせいか、いくらか痩せたようにもみえる。
「風邪ひくわよ」
あたしは自分の白いマフラーを手に取り、マフラーをしていない聖の首にかけた。
「いいの?」
「受験生が風邪なんかひいたら大変でしょ」
そう言うと、聖はやわらかく顔をほころばせた。


もう、ストロベリィ・ガムは愛せない。
それが誰かの真似事でしかないのなら、あの毒々しいほどのあまさは、あたしに何の意味ももたらさなかった。
ストロベリィ・ガムは失われ、ママとのやさしい世界は壊れ、聖ももうすぐ離れていってしまう。そうして、あたしの依存するものは消えていこうとしていた。
それでも、もうかなしいとは思わない。むしろ、あたしは今まで多くのものに依存して、すこしも自分の足で立っていなかったことを思い知らされた。独り善がりで、数少ない大切な人やものに頼って。自分の力を試すこともしないで、目の前の現実におびえてばかりいた。
四時間目から授業に出ることを決めたあたしと聖は、裏庭で時間をつぶすことにした。春になれば、タンポポが芽吹いたり、桜の花が咲いたりするのだけれど、今はまだなにもない。聖はライターを取り出して、煙草に火をつけた。マイルドセブン。あの人もおなじ煙草を吸っていたことを思い出す。
校舎の壁にもたれてぼんやりしていると、優美な黒い尻尾をゆらしながらジュリエットが現れた。あたしの足にすり寄って、なぁと鳴きながら餌をねだる。ほんとに、世渡りのうまい猫だ。かばんからキャットフードを取り出し、地面にばら撒く。首のあたりをなでると、ジュリエットはごろごろと気持ち良さそうに喉をならした。ほつれていた首の赤いりぼんは、いつの間にか新しいものに取り替えられている。澄んだおおきな目。つややかな毛並み。きれいなつめ。あたしは知っていた。
ほんとうは、ジュリエットは野良猫なんかじゃないことを。
顔を上げると聖と目があったので、なに?と尋ねてみる。
「その猫と夏姫は、ほんとうによく似てるな」
そう言った聖の表情は、とてもやわらかかった。あたしはわらう。あたしとジュリエットは、似ているのかもしれない。ずっと、認めたくはなかったのだけれど。
黒猫は気持ち良さそうに伸びをし、聖がはきだした煙は、ゆらゆらと空へのぼってゆく。
平和で、切ないほどに幸せな風景。
ふいに見上げた空は、まぶしくて痛いほどの青空だった。

FIN.

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