17.世界の終わり

クリスマスイブは、ママと買い物に出かけた。
12月24日はあたしの誕生日。
ママはあたしが生まれた年のクリスマスほど、幸せなクリスマスはなかったと言う。
あたしはジル・スチュアートで、ジャケットとスカートを買ってもらった。ジャケットはころんとしたボタンがかわいくて、黒いスカートにはフリルが付いている。シルエットがきれいなジルの服は大好き。
ママはセンスがいい。だからママと買い物に行くのは安心できるし楽しかった。ママは大好きなイヴ・サンローランで、新しいバッグとコートを買った。欲しかったデザインのバッグがあったので、ママはとても嬉しそうだ。
いつも思うのだけれど、買い物って一種のストレス発散なのだ。
あたしとママは頻繁に買い物をする方じゃないから、買い物をする時はここぞとばかりにたくさん買い込む。お陰で、荷物はすごく重たくなるのだけれど。
帰りにモロゾフでママとあたしの大好物であるプリンを買い、アンテノールでチョコレートのホールケーキを買った。
それが、ママとあたしのクリスマス。


夕食の準備をしている間、リビングに置いてあるラジオからは、軽快なクリスマスソングが流れていた。バックに鈴がリンリンと鳴り、女性ボーカルが声を張り上げて歌っている。
DJによれば、この曲は十年前のクリスマスに流行った歌らしい。あたしの知らない、可笑しいほどにあかるいクリスマスソング。ママはその歌をハミングしながらスープを煮込んでいる。
テーブルの上にはローストチキンとエビフライ、ポテトサラダ、クラッカーにママの好きな赤ワインが置いてある。これらはぜんぶスーパーで買った品物で、ママの料理好きではない性質がよく表れていた。不器用で、料理が苦手なママ。けれど、スープだけはいつもていねいにつくってくれる。じっくり煮込まれた野菜スープは、とてもまろやかでおいしい。
白いお皿の並べられたテーブルをみながら、あたしはママのことを想った。
今年のクリスマスプレゼントには、フィンカの香水をあげた。あのあまいせっけんの香りはママによく似合う。ママはあたしに、アナスイの鏡とポーチをプレゼントしてくれた。いつも通りの、二人きりのクリスマス。でも、つまらないと思ったことはない。引越しの前日でダンボールにかこまれてケーキを食べた年や、ひどい風邪を引いていた年もあったけれど、ママがいればあたしは幸せだった。どんな時でも。
「夏姫、出来たわよ」
台所から、赤いお鍋を抱えたママがやってきた。
ふたりだけのクリスマスパーティーがはじまる。


――もしも明日世界が終わるとしたら、なにをする?
昔、あたしはそんな質問を草野さんにした。ちょうどノストラダムスの予言がどうとか言われていたころの話だ。グラスを磨いていた草野さんは首をひねる。
――そういう夏姫ちゃんは、どうするの?
――たぶんいつもと変わらないように過ごすと思う。
淡々と答えると、草野さんはくすりとわらった。
――夏姫ちゃんらしい答えだね。
赤いトマトスパゲティをフォークに巻きつけながら、あたしはこくりと頷いた。真っ赤なトマトスパゲティ。その色がやけに赤かったことだけは、なぜか鮮明に覚えている。きらきら光るミラーボール。脚の長い椅子。物憂げに流れるジャズの音。幼い頃から、あたしはそういうものが大好きだった。
――草野さんは?
他のお客さんのワインを開けながら、草野さんは、そうだなあ、とちいさな声でうなった。あたしはどきどきしながらその答えを待つ。そのころのあたしは、父親代わりの草野さんの言うことなら何でも正しいと信じ込んでいた。今でも、そうなのかもしれない。
グラスに赤いワインをこぽこぽと注ぎながら、草野さんはふっとつぶやいた。
――いちばん大切な人に会いに行くかな。
意外な答えにきょとんとしてしまう。
――いちばん大切な人?
あたしはスパゲティの上にあったきらいなパセリをフォークでよけた。草野さんはそれを目で追っていたけれど、黙っていてくれるようだ。ママなら怒るだろうけど。
――そうだ。夏姫ちゃんのいちばん大切な人って誰?
草野さんは興味津々といった様子で、カウンターの向こうからあたしに尋ねてきた。
――ママしかいないよ。
楽しいときも、かなしいときも、ずっと一緒だったママ。不安定で地に足がついていないようなひとだけれど、そばにいないパパなんかより、ママの方がずっと凛々しくてかっこよかった。ママと一緒なら、どこにいてもあたしは安心できた。
――ママだって、あたしのことを宝物だって言ってくれるもん。
草野さんお手製のトマトスパゲティを食べ終えたあたしは、フォークとスプーンをお皿の上にそろえて置く。こうすると、ママも草野さんも「行儀がいい」と褒めてくれるのだ。草野さんは苦笑していたようだった。けれどすぐ真顔に戻り、そうだよね、と言った。屈託のない、ひどくやさしい顔つきで。なんだか釈然としない気持ちになったあたしは、デザートのプリンを食べながら尋ねた。
――じゃあ、草野さんのいちばん大切な人って誰なの?
草野さんは何も言わずに、ただにっこりとほほえむだけだった。


「はあ、よく食べたわねえ」
ママは空っぽになったケーキの箱を見ながら言った。あたしも、ほんと、と言って肩をすくめる。六等分にしたホールケーキを、あたしたちはふたりで食べてしまったのだ。
「女ふたりで、ホールケーキを食べちゃうなんて」
あたしがそう言うと、ママは心底可笑しそうにわらった。冷蔵庫にかけた真っ赤なラジオからは、最新のヒットチャートが流れている。あたしは壁にかかる時計をみた。午後八時三十分。いつもならママが仕事に出かける時間だ。ママは、いつもクリスマスイブは仕事を休む。クリスマスまで仕事なんてしてられないわ――と言うのが理由らしいけれど、ほんとのところは、あたしのために休んでくれていることはわかっていた。ママのたったひとりの家族である、あたしのために。
「片付けは夏姫も手伝ってね」
ママは立ち上がってラジオのスイッチを消すと、お皿をがちゃがちゃと片付け始めた。あたしもスプーンやフォークを集めて、台所の流し台へ持っていく。流し台では水道がごぼごぼと音を立てながら、たらいに水を流し込んでいた。ほんとうに、この耳障りな音だけは好きになれない。あたしは水がどんどん溜まっていくたらいを、じっとみていた。水が満杯になるまで溜まったたらいからは、勢いよく水があふれ出す。あふれてしまった水は、もう元には戻らない。
「ねえ、ママ」
隣に立つママは、スポンジに液体洗剤をつけているところだった。ゆるやかにウェーブした茶色の髪に、耳元で揺れるアメジストのピアス。見慣れたママの、整った横顔。ママはあたしを見てきょとんとする。きれいなママは、あたしの自慢だった。ずっと。
「あの人に会ったの」
そう言った瞬間、ママの目がすうっと冷え込んだ。
「…そう。それで、なにか話した?」
怖いぐらいにしずか。
ママは平生を装いながら、お皿をがちゃがちゃと片付けていく。
「ママの昔の話を聞いたわ。それから、一度だけでもママに会わせて欲しいって言われた」
きゅっと蛇口が閉められ、耳障りだった水道の音がやむ。ママは息を飲み込んで、あたしに向き直った。
「じゃあ、どうして会わせてくれなかったの?」
あたしはひるみそうになる。ママの目は冷たくて、見たこともないぐらいこわい顔をしていた。
「会えばきっと、ママもあの人も離れられなくなる。互いに依存して、一緒にいればいるほど、互いを壊していく。あの人だって、そう言ってた――」
パンッ、というにぶい音がして、頬に痛みが走った。ママはうつむいたままで、表情はみえない。あたしは何も言わなかった。きっとママがそうするだろうことは、わかっていたから。あたしは今、生まれて初めてママに反発した。ママが喜んでくれることが、あたしの幸せだったと言うのに。かなしくて、やるせなくて、喉が焼けるように痛い。
それでも、ママに現実を見せられるのはあたししかいない。どれだけかなしくても、あたししかないのだ。
ママはゆっくりと顔を上げて、低い声で言った。
「自分だけ幸せになって、どういうつもり?」
その死んだような顔つきに、あたしは泣きたくなった。こみ上げてくるしゃっくりを飲み込んで、ママの目をしっかりとみる。
「じゃあ、あたしはどうして『夏姫』なの?」
ママは一瞬、目を見開く。それから困ったような、呆れたような表情になって、いつものように諭すような口調で言った。
「何度も言ってるでしょう? あなたは、ママの大事なお姫様だからよって」
「うそ」
もっといい嘘を思いついてよ。あたしは心のなかで意地悪を言う。呆れたような表情は本物だけど、言葉がとても作り物っぽいことにママは気付いていない。ママは嘘をつくのがすごく下手だった。
「斉藤夏樹。これが、あの人の名前でしょう? ママはあの人を忘れようとしていたけど、ほんとうは忘れたくないから、あたしにこの名前を付けたのよ!」
ママは呆然とした表情になり、あわてて首を横にふった。あたしはかなしくなる。もうママに嘘なんてついて欲しくなかった。
「ママが欲しがっているものは、ほんとうの幸せじゃない」
ママは固まったまま動かなかい。ぽちゃん、という音がして、蛇口から水が漏れたことがわかる。それくらい、部屋のなかはすごくしずかだった。
何かを知るには、この世界は狭すぎる。
温かくて、とてもやさしい場所だけど、あたしはいつかこの場所から飛び立たなければならない。そのことにママはまだ気付いていない。ママのかなしく狂った世界――それを、あたしと永遠に共有できると信じている。
ママはようやく顔を上げた。今にも泣き出しそうな表情で、あたしを見る。
「……名前のことは認めるわ。でも、夏姫のことを大切にしていないわけじゃないの」
「わかってる」
あたしを生まなければ、ママはもっと自由だった。あの人との関係だって、またちがったものになっていたかもしれない。それでも、ママはあたしを生んでくれた。
理由はたったひとつ。生まれる前から、あたしを愛してくれていたから。
あたしが今ここにいること――それが、夏樹ではなく『夏姫』が大切にされていた証だった。
「ありがとう、ママ」
ママは何も言わなかった。あたしもふり返らずにリビングの扉を開けて、部屋を出る。
ママとあたしの世界は壊れたのだ。あっけなく。しずかに。
あたしはこんなちいさな世界にずっと囚われていたのかと思うと、すごくかなしくなった。
閉ざされた世界は幸せ。なにも知らずに、ただそこで呼吸をしていればいいのだから。
けれどそれは、ほんとうの意味での幸せではなかった。
なにも知らないまま生きていけたら、どんなに幸せなんだろう。けれど、あたしは外の世界を知った。外の世界で聖や結衣に触れ、ママの世界で息をすることが苦しくなって。
だから、こうしてママを拒絶してまで、あたしは自分で歩くことを決めたのだ。
ここから先の幸せは、自分で掴んでいくしかない。
自信なんてひとつもないけど、これが、あたしの決めた道だった。
自分の部屋に戻った瞬間、涙がぼろぼろとこぼれ出した。あたしが泣いちゃダメだ。ママの方がずっと、かなしいのだから。そう言い聞かせて、まぶたを手で押さえる。
ママとあたしの世界は、あっけなく、しずかに壊れた。
でも、それがこんなにもさみしくて、つらいこととは思わなかった。


Back * Top * Next
inserted by FC2 system