Alice2.ぶどう酒

アリスマーチという曲があった。カスタネットやピアニカが、まるで小学校の演奏会のようにまとまりなく鳴る曲だ。トライアングルが不規則にチーンと響いて、タンバリンのバンバン、バンと合っているようで微妙にずれているリズムから曲は始まる。曲中ではピアニカがあわただしく吹かれ、たぶんどこかで下手くそなハーモニカの音も入っていたと思う。そんな音楽が成り立つのは、うしろで静かにリズムをとっている大太鼓のおかげだ。ダンダンダン、と不気味なほど規則的にリズムをとっているから、この曲は無事マーチとして成り立っている。
あたしはこの曲が大好きだった。どこかどう好きかって問われても、それにうまくこたえることはできない。ただなんとなく好きなのだ。
そう言うと、ママはやわらかくほほえんだ。
「それは愛莉珠の曲だからよ。永遠に子どもでいるための、子どものための曲なの」
それから、あたしはずっとその曲をさがし続けている。
でも、だれもそんな曲は知らないという。


高校生になって、おもちゃ箱がひとつ増えた。中学生のときも持っていたけど、“おもちゃ箱”と呼べるほどになったのは高校生になってからだ。
昼休み、トイレではゆかと絵実が鏡の前で真剣この上ない表情でマスカラをつけている。
「やっぱウォーターフループがいい。愛莉珠、何か持ってない?」
あたしは手のひらの上でおもちゃ箱――化粧ポーチをひっくり返す。
「メイベリンのならあるけど」
「うん、それでいいよ。貸してくれる?」
このあいだ買ったばかりのメイベリンのマスカラを、絵実に手渡す。あたしの化粧ポーチはアナスイだ。アナスイは少女趣味な蝶々の模様とかが多いから好き。あたしはメーク自体、濃いのは品がないと思うしそんなに一生懸命にはしない。たしなむ程度にしかやらないけど、パパがシャネルのアイシャドーやディオールのファンデーションをお土産に買ってきてくれるから、ポーチの中はへんに品ぞろえがいいのだ。
「あっ、これいいかも。私も今度買おうかな」
メイベリンのマスカラをつけながら絵実が言った。絵実は同じクラスにボーイフレンドがいる。体育で汗をかいてしまったので、こうして今いそいそとなおしているところだった。ゆかはこれからC組の永田くんにノートを返しに行く。このあいだ、例の平野梨佳を間近でみたらしく、ゆかの闘争心にめらっと火がついたそうだ。
みんな大変だなあと、あたしは他人事のように思った。ほんとに他人事なんだけど。


「片瀬さん」
視聴覚教室の前の廊下で、情報の授業の課題提出に手こずっているゆかを待っていると、知らない男の子が話しかけてきた。目算170センチくらいの身長。髪は黒色でまっすぐ、目が大きくて雰囲気はやさしそうだ。
「なに?」
知らない人だけど、初対面の人にわるく思われたくはない。あたしは笑顔をつくった。
「これ、俺のアドレスだから。よかったら送って」
紙切れを一方的につきつけて、あたしが躊躇しながらも受けとったのを見ると、その男の子はにこりと笑って去っていってしまった。あたしは紙切れを持ったまま呆然とする。何だったんだろう、今のひとは。
「へえ。愛莉珠もやるじゃない」
ふりむくと、いつの間に教室から出てきてきたのか、ゆかがにやにやしながら立っていた。あたしの手からさっき渡された紙切れを奪う。
「1年B組、横山亮太。あたしは知らないなぁ。でもわりとカッコよくなかった?」
ゆかはミーハーだ。新しいものやかっこいい男の子にはすぐ興味をもつ。女の子らしいといえば女の子らしいけれど。あたしは紙切れをとり返し、素早くペンケースの中につっこんだ。この問題はしばらく保留だ。
「はやく行こ。次リーディングだよ」
「もうっ、愛莉珠ってば」


校門を出ると、脇に黒いメルセデスがとまっていた。パパだ。あたしが車に近付くと、パパは窓から顔を出し、助手席のドアを開けてくれた。
「お疲れさま。今日の学校はどうだった?」
ふつうだよ、と答えると、そうか、と満足したような声が返ってきた。あたしがシートベルトをしめ終えると、車は車道をゆるやかに走り出す。ゆかはあたしのパパが好きだ。理由は「カッコいいし、ダンディだから」らしいけど、パパはお世辞なしでかっこいい、と娘のあたしでも思う。この人はほんとに老けないのだ。こんなパパだから、一緒にご飯食べに行くことや買い物することに抵抗がないのだと思う。
交差点で赤信号になり、パパは車をとめる。ウインカーのカチカチという音だけがやたら耳につく。
「愛莉珠、どこか行きたいお店でもある?」
うす暗い夕闇の中、せわしなくうごく歩道のひとたちをながめながら考えた。どうして、あのひとたちはいつも忙しそうなのだろう。
「エミリーテンプルキュートで新しいワンピースが出たんだって。あたしそれ見に行きたい」
エミリーテンプルキュートはあたしがいちばん好きな洋服のお店だ。りぼんやレース使いがとても可愛くて、服のデザインも華奢で女の子らしい。パパもエミリーテンプルキュートの服は「愛莉珠に似合う」と言っている。
「いいね。最近いそがしくて愛莉珠になにも買ってあげられなかったから、欲しいものがあれば何でも言うといいよ」
「うん」
あたしはパパの端整な横顔を見た。パパはあたしに甘い。きっと、若いころママとデートしていてもパパは甘かったんだろうなって思う。


夕飯はフランス料理だった。あたしとパパはよく外食する。織部さんに気を使っているわけではないけど、パパはあたしをつれて外食するのが好きなのだ。
「愛莉珠、ほかに買ってきて欲しいものはないか?」
ボルドーがワイングラスにこぽこぽと注がれていく。きれいなワインレッド。来週、パパはイギリスへ出張に行くらしい。スコーンと紅茶の葉っぱは頼んでおいた。本場のほうがおいしいから。
「うん。別にないよ」
「そうか。いいものがあれば買ってくるよ」
パパはいれたてのボルドーをひとくち口に含んだ。おいしそうに、目を細める。
パパは『子ども』だ。おとなになることに抗い続けて子どものままでいるといったほうが正しいのかもしれない。
メルセデス――パパがあの車を愛する理由を、あたしはなんどか聞いたことがある。メルセデスはその車をつくった人の娘の名前なのだ。愛する車に、愛する娘の名前をつけた。パパはこの逸話をとても気に入っていて、むかしから愛車はメルセデスにすると決めていたそうだ。
永遠に子どもでいようとして、永遠に少女だったママを愛し、永遠に子どもであるあたしを愛している。パパは幸せそうにみえて、ほんとはすごく不幸なのかもしれない。孤独なのかもしれない。だって、パパの気持ちをわかってあげられるのはママとあたしだけなのだから。
前菜にカニのテリーヌ、主食に牛フィレのソテーを食べ、デザートにペパーミントムースを頼んだ。パパは、「愛莉珠には甘いものがよく似合うよ」と言ってわらった。


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