Alice5.薔薇のとげ

薔薇庭園は魔の空間だ。そこの白いベンチに座ってぼんやりしていると、なにもかもが夢みたいに思えてくるもの。アーチに巻きつけられたつる薔薇、そこかしこに咲きほこる株薔薇。孤高であざやか、ゆえに繊細でさびしい薔薇たちを見ていると、ふわふわした夢をみているような気分になる。織部さんも、「薔薇庭園にいる愛莉珠ちゃんには、何だか話しかけ難いのよ」と言っている。あたしはそこで、甘くも空虚な薔薇たちの夢をみているのかもしれない。あたしの薔薇庭園での楽しみは、咲きざかりの薔薇の花びらをむしることだ。癖になっちゃうくらいそれが好き。きれいな花の女王さまを見つけては摘みとり、指でていねいに花びらをむしっていく。ひらん、ひらんと宙にうかび、はらはらと涙みたいに落ちてゆく花びらを見ているとはかない気持ちになる。きれいな花を手に入れたよろこびと、すぐに失ってしまう切なさ。それはじんせいみたいで、始めるとやみつきになってしまう。ママはそんなあたしを見て、
「へんな子ね。それのどこが楽しいのかしら」
とつまらなそうに言っていたけれど、あたしは知っている。ママもこの遊びが好きなのだ。その証拠に、花びらを散らすあたしを見る目はいつも楽しそうだった。きっと、誰もいないときにこの遊びをしていたのだと思う。あたしはこの少女趣味な薔薇庭園が大好きで大嫌いだった。甘さをきわめた夢みたいな場所で、ママと交わしたやりとりさえ、幻に思わせてしまう場所だから。


横山くんとは、廊下や運動場で会ったら話をするようになった。話って言っても、英語の小テストの出来ぐあいとか、天気の話とか、そんなもの。晴れた木曜日の昼休み、あたしは横山くんに屋上に呼びだされた。この学校の屋上はふだんから出入りできるようになっていている。そのかわり、黒い柵(さく)が、まるで牢屋のようにまわりを囲っているのだけど。
「俺、ずっと片瀬さんのこと好きだったんだ。付き合ってくれないか?」
屋上で告白か。残念ながら、あたしはこういう経験が初めてではなかった。また青くさいベタなシチュエーションだなあと思いながら、横山くんの顔を見る。わ、なんか真剣っぽい。予想以上に張りつめた雰囲気にあたしはとまどった。
「えっと…横山くん、いいひとだけど付き合うっていうのは無理かな」
「なんで? ほかに好きなひとでもいるの?」
間を置かずに言う。横山くんは大きな黒い目でじっとあたしを見つめてきた。あたしの表情の変化を、一秒たりとも逃さないというような目。あたしは怯む。だって、「横山くんは『子ども』じゃないから」なんて言えるわけがない。横山くんはおとなだ。日曜日に「出待ち」していた彼女たちのようなはんぶんおとなとかじゃなくて、横山くんは完璧なおとなだ。こういうひとは嫌いじゃなくて、苦手だ。完璧なおとなは、『子ども』の気持ちを理解しようとする。そのへんがとても厄介なのだ。
「ちょっと考えさせて。決まったら返事するから。お願い」
あたしは両手をあわせて横山くんにお願いした。横山くんは顔をしかめる。
「……わかった。でも、俺は本気だから」
目は動かない。横山くんはしぶしぶと言ったかんじで許してくれた。屋上から帰るとき、おおげさじゃなくてほんとに身ぶるいした。こわかった。完璧なおとなの妥協しない目、飲みこまれそうな雰囲気。あたしは立ちすくみそうだった。おとなは苦手だ。子どもはおとなを理解しようとはしない。けれど、完璧なおとなは高いところから、未熟な子どもを懸命に理解しようとする。あたしはおとなから逃げたのだ。情けないなと思いながら、あたしは深い敗北感にくれていた。


放課後、ゆかとクルベールに行った。
「で、昼休みの話はどうなったの?」
日曜日からゆかは永田くんと無事付き合うことになったらしい。その点であたしに感謝しているらしく、ごきげんな彼女はスペシャルケーキとダージリンをおごってくれた。スペシャルケーキって言っても、メロンとか、いちごとか、フルーツがたくさんのったタルトがそう名づけられているだけの話。でもクルベールのケーキはおいしいから、あたしはゆかの好意に甘えることにした。
「断ったけど、理由は? って訊かれて答えられなかったから、横山くんは納得してくれなくて」
ぶすっとした表情で言う。タルトにのっかったパイナップルにフォークをさすと、パイナップルはふたつに割れた。みとれちゃうくらいきれいな割れ目。パイナップルを口に入れると、思ったより甘酸っぱくてかなしくなった。あたしは負けたのだ。おとなの横山くんに。
「ふうん。それで返事は先延ばしなんだ」
ぴかぴか光るいちごを食べながら、のほほんとゆかは言う。あたしはちょっとむっとした。
「ゆかは他人事だと思ってるでしょ?」
そう口をとがらせると、彼女はふるふると首を横にふった。そしてダージリンを口に含んでからにやりとわらう。ゆかが悪知恵を働かせているときの顔。いやな予感がした。
「だから、『あたしは上岡クンが好きなの』って言えばいいじゃない。ほらぁ、愛莉珠の理由なんてかんたんに作れるわよ」
声まで真似して言ってくれるから気持ちわるい。冗談じゃないわよ、と言うと、ゆかのわらい声が返ってきた。ボーイフレンドが出来たゆかは、このあいだの絵実みたいにあたしの状況を楽しんでいるようでさえあった。


幼い頃、あたしの世界はおもちゃ箱で形成されていた。
大好きなクマのぬいぐるみの“ロージィ”を筆頭に、小花の模様が入ったティーセット、カラフルな積み木に、金髪碧眼のマリオネット“シャトール”とフランス土産の兵隊“フランソワ”。ロージィはちょっと鼻の位置がずれているのが気に入っていて、最近気付いたのだけれど、ロージィは優貴に似ている。パパがフランス土産に買ってきてくれた長身痩躯のフランソワは、綺麗なシャトールのことが好きっていう設定。今でもおもちゃ箱はあたしの部屋にある。ロージィもシャトールもフランソワも、あたしが『子ども』である限りそばにいてくれる。彼らはとてもきれいだ。だって、おとなを知らないのだから。あたしはいつでも彼らにあこがれている。手のとどかない羨望だとも知っている。けれど、あきらめるわけにはいかないのだ。
見たいテレビ番組があると言うと、織部さんは先にお風呂に入ってくれた。ほんとは見たいテレビなんてない。織部さんはあたしの家のお風呂が好きだ。ひろくて、泡がぽこぽこ出るのが気持ちいいんだって。織部さんはお風呂がながいから、しばらく出てこないと思う。あたしはロージィを抱いて玄関を出た。夜風はひんやりとしていて、なんだかママの指に似ていた。なにか羽織ってくればよかったかな、とちょっぴり後悔する。このへんは空気がいいから、月も星もはっきり見える。
あたしは子どもだ。なにも知らない、なにも知りたくない子ども。子どもの上に立ったふりをして、よごれて、朽ちてゆくおとなにだけはなりたくなかった。だけど、今日やっと気付いた。すべてを受け入れ、完璧なおとなになったひとほど強いものはない。いくらきれいな子どもでも、完璧なおとなになった彼らに勝つことは出来なかった。あたしは弱い。幼い頃つくった積み木のお城もそうだった。すこし地盤がゆるんだだけで、あのお城はあっけなく崩れてしまった。今日知った敗北感はそのときの気持ちに似ている。でも、その程度で挫折してしまってはだめだ。これは永遠に子どもでいるための壁。きっとパパやママもぶつかったであろう、おおきな壁。あたしはおとなになれない。「愛莉珠」を守るために、愛されるために、おとなになってはいけないのだ。
あたしはおとなになんてなりたくない。おとなは確かに強いかもしれない。けれど、あたしが求めるものは『子ども』であることなのだ。
ちいさな公園では、頼りない明かりがぽつんとついているだけだった。暗い世界。あたしはぎゅっとロージィを抱きしめた。寂しかった。こわかった。ここにはもう誰もいないんじゃないかって思った。これがパパとママ、そしてあたしの孤独なのだろうか。
そろそろ帰らないと織部さんが心配する。その時ふと、あたしはママとおなじことをしていることに気付かされた。


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