3.スイートピンキィ

ママの仕事がない夜は、きまって『ポール』に行く。
『ポール』というのは、ママのお気に入りの会員制のバーの名前。うす暗い店内にあわい黄色の電灯がぼんやりとついていて、BGMにはしずかなジャズが流れる落ち着いた雰囲気のお店だ。入り口から向かって右端のスツールが、あたしたちの指定席。ほんとは未成年立ち入り禁止の店なのだけれど、あたしだけは特別に許可してもらっている。
「テストお疲れさま。どれも高得点だったし、さすが夏姫ね。すばらしいわ」
カチン、とグラスで乾杯し終えると、ママはピーチやイチゴの果汁が入ったあまそうなカクテルをごくごくと飲む。ママはこのカクテルがなければ生きていけない。依存だ。
あたしはそんなママを横目にオレンジジュースを飲む。ここのオレンジジュースはやけにお酒っぽい。店内にお酒のにおいが漂っているせいなのか、草野さんが故意にお酒を入れているせいなのかは知らないけれど。どっちにしろ、あたしはお酒がきらいじゃなかった。お酒が飲めない女の人はつまらない、とさえ思う。
「草野さん、今日のスイートピンキィ、いつもよりあまくないかしら?」
ママはカウンターにいる草野さんに話しかける。草野さん、というのは、この店のマスターだ。黒いふちのある眼鏡をかけていて、鼻の下に英国紳士みたいな髭をはやしている。ほそい目をさらにほそめながらわらう愛想のいい人で、あたしたちは草野さんと話すためにここに来ているようなものだった。
「イチゴの種類を変えたんだよ」
草野さんは、ママにほほえんでつまみのクラッカーを出す。
「ふうん。ずいぶんあまいイチゴなのね」
ママはクラッカーをつまみながら、草野さんに三杯目を注文した。あたしはこの店のしずかな雰囲気が大好きだ。ゆったりと流れるジャズに、うす暗い中に光るあわい黄色の電球。ぼんやりとしたやわらかい照明はとても幻想的で、ちいさい頃はよく、草野さんやママにあの照明が欲しいとねだっていた覚えがある。
「夏姫、聖クンとは最近どうなの?」
ママの目は虚空を泳いでいた。もう酔っている。今日はお酒をたのむペースが速いな、と思っていたけれど。
「どうって、べつにふつうだけど」
ふぅん、と言いながらママは長い足を組みなおした。ピンヒールの黒いパンプスが、艶かしく気だるげに動く。
「そ。ママ、夏姫と聖クンってなかなかお似合いだと思うわよ。ふたりとも落ち着いているし」
口だけだ。あたしにあまり外の世界を知って欲しくないママは、あたしが聖と付き合っていることをあまり快く思っていない。言わなくてもわかる。ママは、ママの世界にあたしを閉じ込めたがっているのだ。ひとりぼっちは、さみしいから。
「いいわねえ、夏姫は。会いたい人にすぐ会えて」
ぎょっとして隣を見ると、ママはごくごくと四杯目のスイートピンキィを飲み干していた。草野さんによると、スイートピンキィは倒れるほどあまいカクテルでアルコールもきつく、よほどの物好きしか頼まないお酒らしい。
「ママ、」
大丈夫?と訊こうとすると、ママは急にカウンターに突っ伏した。
「ちょっと、ママってば」
心配してママを揺すると、かすかな寝息が聞こえてきた。ほっとする反面、一気に脱力する。ママは酔っ払うと、しゃべるだけしゃべって寝てしまうのだ。ほんとうに迷惑な酔っぱらい。ママの手入れの行き届いたハニーブラウン色の髪を、あたしはじっとながめた。
「あの人のことを、思い出していたようだね」
カウンターにいる草野さんが、遠慮がちにあたしに話しかけてきた。
「そうですね。思い出しても、意味なんてないのに」
あたしは冷めた目でママをみる。あわいピンク色の長い爪。胸元が大きくひらいたニットに、タイトなスカート。ママはきれいだ。中学生の娘がいるなんて、外見だけでは考えられないぐらい。
「あの人と美雪さん(ママのこと)は、よくここの席で一緒に飲んでいたよ。それはそれは、店内でも有名な美男美女カップルでね。それで僕も美雪さんのことをあきらめ…おっと、おしゃべりが過ぎたかな」
あたしはママの肩に上着をかけながらわらった。草野さんはあかるく話すのが上手だ。
「ふたりはどんな様子だったんですか?」
草野さんはウーロン茶を出してきた。よかった、今度はお酒混入ではないみたい。これであたしまで酔ってしまうと、ふたりとも帰れなくなってしまう。明日は学校なのに。
「とにかくきれいだったな。ふたりを見ていると、きれいな絵でも見ているような気分になれた。楽しそうに会話していて、ときどき顔を見合わせてはほほえみあっていてね。美雪さんは酔うとしゃべるだけしゃべって、こんな風に寝てしまうから、そうなると、あの人は夏姫ちゃんみたいに上着をかけていたんだよ」
「そうなんですか…」
あたしはウーロン茶のグラスを持ち上げた。こうして豪奢なグラスに入っていると、ウーロン茶もお酒みたいに見える。ママがほったらかしにしたままのガラス棒で、氷をつつく。パリン、と音がして氷が割れた。
「じゃあ、どうして?」
どうして、ふたりは一緒になれなかったんですか?
草野さんはグラスを磨く手を止める。草野さんが答えに窮するのはわかっていたけれど、幸せだった頃のふたりの話を聞くと、そう尋ねずにはいられなくなるのだ。
「それは、僕からは話せないことだよ」
草野さんは目を伏せた。あたしは物分かりのいい子どもみたいに、こくりとうなずく。
あたしは、あたしの知らない頃のママとあの人の話を聞くのが好きだ。
ママがいちばん幸せだった頃の、話。


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