5.およぐ白煙、青い空

重たい足取りで生徒会室へ向かう。
なぜだか知らないけど、緊急に会議が開かれることになったらしい。生徒会室以外では滅多に顔を合わせない聖が、わざわざあたしの教室までやってきて言ったのだからまちがいはない。それにしても、ものすごく億劫だ。今日は早く帰って、コンビニで雑誌とストロベリィ・ガムを買って、大好きなアヴリル・ラヴィーンの曲をエンドレスで聴こうと思っていたのに。せっかくの予定が台無しになった。
「三時間ぶり」
生徒会室の白いドアを開けると、部屋の奥で聖が優雅な笑みをたたえて座っていた。いつもはきちんと閉められた黒い詰襟のボタンが開け放たれ、白いシャツの胸ポケットには煙草の箱が見える。
それは、優等生という仮面をはいだ聖の姿。
完全にはめられた。そう気付いた時には、もう遅い。あたしはしぶしぶドアを閉める。
「職権乱用」
あたしが軽蔑の目を向けると、聖はパイプ椅子にもたれて軽くわらった。ギシギシと、ゆがんだ不快な音がする。
「これが職権乱用なら、夏姫が副会長であることも職権乱用だよ?」
「知ってるわ」
聖はあたしの白いネクタイを手に取り、慣れた手つきでそれをほどく。男のくせに女物のネクタイをほどくのが上手だなんてへんだ。
「外野がうるさくて、夏姫とゆっくり話もできなくて寂しかったよ」
聖は立ち上がり、あたしの顔をのぞきこんでくる。じっと見つめる瞳が怖くて、あたしは思わず目を逸らしてしまった。
「うそつき」
聖はうそつきだ。偽りの中で生きている。どれが嘘なのか誰にもわからないぐらい、器用に偽りの自分をつくって生きている。
どうして、そんなかなしい生き方しかできないのだろう。
目の端に、じわりと涙がにじんだ。だめだ、泣きそう。あたしは聖の前ではどうも無防備になってしまう。あまくて毒々しい危険な感情がふつふつと沸き上がってくる。あたしはその感情を気取られないために、必死にまばたきを繰り返した。聖はそんなあたしを不思議そうに見てから、ふっと耳元でささやいた。
「ほんとは好きなくせに」
それでもう十分だった。乱暴に唇を重ねられたとたん、全身の力が抜ける。その時――
ガタンッ
慌ててふり向くと、ドアの近くには一人の女の子が立っていた。
「うそ…っ」
彼女はきれいな顔をひきつらせて、口元を手で覆っていた。聖はため息をつき、つめたい眼でその女の子――真美先輩をみる。
「そういうことだから。迷惑なんだ」
あたしは呆然とする。真美先輩も、すこし遅れてここに呼ばれていたのだ。そして、あたしと聖のほんとうの関係をその目で見てしまった――いや、正しくは聖に見せられた。あたしは改めて思い知らされる。聖の行動力の凄さ、そして、残酷さを。
真美先輩は瞳に涙をいっぱいため、青白い顔で部屋を出て行く。バタンッと乱暴に閉められたドアだけが、真美先輩の心情を表していたかのようだった。あたしは突然の出来事に呆気に取られ、その場に立ち尽くすしかなかった。
なにを言えばいいのかわからない。
聖は生徒会室の窓を開け、気だるそうに煙草を一本取り出した。
「…いいの?」
あたしが声に出せたのは、たったその一言だった。聖はズボンのポケットからZippoのライターを取り出し、煙草の先に火をつける。
「いいんだ。ずっと、迷惑だったし」
窓の縁に座り、聖は青い空に煙をくゆらせる。あたしは机の上に放置されたままの白いネクタイを手に取って結びなおした。煙草を吸う人の姿は、何だかとてもかなしい。聖もママも、すべてをあきらめたような目をする。
「好きだって、俺のこと。何も知らないくせに」
そう言う時の聖の声は冷たい。華やかなうわべだけに惹かれる人への嫌悪が満ちている。聖は、そういうことで何度も傷ついてきた。本物なんて、誰も与えてくれなかった。
「俺には、夏姫さえいてくれたらいいんだ」
そんな人たちの中で本物を与えてくれたのは、夏姫だけだと彼は言う。
聖はさみしい人。だからあたしは、どれだけの人にきらわれても、傷つけられても、彼のためになるのなら構わないと思っている。
聖の左手をそっと握る。すると、彼はなんだかくすぐったそうな笑みを浮かべた。
そう。
この笑顔が見られるのなら、あたしはどんな困難だって厭わないから。


ママの新しい恋人の佐々木さんがうちに来たのは、とても冷え込んだ夕方だった。
「こんにちは」
グレーのスーツにみず色のさわやかなネクタイ。佐々木さんは痩せた男の人だった。あたしはこういう人が好きじゃない。それに、佐々木さんはあたしを品定めするような目をしている。あたしは不快になって、
「こんにちは」
と、低い声で挨拶をした。対照的に、ママは嬉しそうな声で「上がって」と言う。
ママの仕事が休みの水曜日。珍しくキッチンからカレーの匂いがしないと思ったら、とんだ「お客さん」が来たものだ。あたしはぶすっとした顔のまま、紅茶を三人分いれる。佐々木さんの分は濃い目にしようかと思ったのだけれど、不毛だと思ってやめた。紅茶をトレーにのせてリビングに行くと、ママと佐々木さんは楽しそうに話していた。
「いやあ、美雪さんにあんな大きなお嬢さんがいるなんて、驚いたな」
「あの子は夏姫って言うんですよ。今は中学二年生で。あら夏姫、どうもありがとう」
ママは、紅茶を配るあたしを見てにっこりとほほえんだ。あたしは黙ってうなずく。
ママと佐々木さんは、黒いつやつやのテーブルをはさんで、向き合って座っている。この奇妙に安穏とした場から早く逃げ出したかったけれど、ママが「座りなさい」と言ってソファーを指差したから、あたしはしぶしぶママの隣に座った。
「いやあ、こうして見ると、夏姫ちゃんも美雪さんにそっくりだね」
当たり前だ。あたしはれっきとしたママの娘なのだから。佐々木さんはお土産にメリーのチョコレートを出してきた。ママは喜ぶ。ママは、チョコレートの中でもメリーのチョコレートがお気に入りなのだ。
「夏姫は何でもよくできる、自慢の娘なんですよ」
あたしは黙ったまま、メリーのコニャック入りのチョコレートを口に放り込んだ。口の中でコニャックがとろける。いつも思うのだけれど、ママはあたしを過信している。あたしにできないことはないと思っているのだ。あたしは、ママのために何でもできるふりをしているだけなのに、ママはそれに気付く気配もない。
「今度の休みはドライブにでも行きませんか」
「あら、それはいいわね」
ママと佐々木さんは、もうべつの話で盛り上がっていた。佐々木さんはママにぞっこんだ。目を見ていればわかる。熱を帯びた、何かまぶしいものを見るようなあの目。
ママに恋なんかしても、報われないのに。
あたしはチョコレートの緑色の包み紙を手でくしゃくしゃに丸めた。ママにとって、恋愛は単なる遊びだ。本気になることなんてありえない。だって、ママにはあの人がいるから。
あの人がいるから、ママは弱さを隠して生きていける。
あたしはママを見ていると、ときどきかなしくなった。
もう二度と会えない人なのに、ママはいつまでもあの人を探し続けている。そして、あの人の代わりを求めるために、遊びの恋愛をする。
あたしは、そんな大人にだけはなりたくなかった。


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