6.ローマの休日

土曜日、あたしとママは近くのベーカリーカフェでおそい朝ごはんを食べる。ママは家事がきらいだから、土日にまで家事なんてしたくないそうだ。
あたしがいつも食べるのはサンドイッチと菓子パンがそれぞれひとつずつ。サンドイッチは食べないとママにおこられる。「一食につき必ず野菜を食べないと、体にわるいわ」と言い張るのだ。あたしはしぶしぶそれに従うのだけれど、当のママは、陽のあたるテラスで女優みたいに大きなサングラスをかけて、コーヒーだけを飲んでいた。矛盾している。けれど、なにしろママとふたりだけの生活なのでもう慣れてしまった。
「今日はカプチーノ?」
トマトとハムのサンドイッチ、メロンパン、それにカプチーノをトレーにのせて戻ってきたあたしを見て、ママは言った。
「そう。ママはコーヒーだけでいいの?」
「もちろん」
ママは額の上にあげていた大きなサングラスをかけなおして、かばんから本を取り出した。煙草の匂いがする。きっと、あたしが戻ってくるまで煙草を吸っていたのだ。ママは煙草が好きなのに、あたしの前では律儀に煙を消してしまう。学校ではヘビースモーカーの聖と一緒にいるのだから、ママが気をつかってくれてもあんまり意味はないんだけど、と思いながらあたしはメロンパンをちぎった。
「なに読んでるの?」
訊くと、ママは赤茶色の皮革のブックカバー(あたしが誕生日にプレゼントしたの)をはずしてみせた。
「ローマの休日、よ」
「ママ、そういうの好きだね」
「ええ、大好き」
ママはにっこりとわらった。ママの憧れの女性はオードリー・ヘプバーンだ。昨日も仕事に行く前に『ティファニーで朝食を』を見ていた。そのお陰で、あたしはオードリーの美しさについてしつこいぐらいに聞かされて育ったのだけれど、オードリーはほんとうにきれいだと思う。あの人には凡人にはない、内から放たれる美しさや気品がある。
「夏姫も、あたしが読み終わったら読む?」
あたしは首を横にふる。
「ううん、いらない」
ママはすこし残念そうに眉をしかめてから、再び小説に没頭し始めた。あたしはオードリーにはなれない。あんな透明さや純情さなんて、永遠に手には入れられないものなのだ。焦がれて焦がれて、あたしもママも、もうこんな所まで来てしまった。ふつうの恋愛なんかとはちがう、もっと破滅的で気高い感情が、満たされることなくくすぶり続けている。


その後、あたしはママに連れられて『ジュエリー』に行った。『ジュエリー』は、ママの友達の香帆ちゃんが開いているネイルサロンだ。以前、安易な名前、とあたしがつぶやくと、ママは今ごろ気が付いたように大笑いした。きっと香帆が悩んだ末に付けたのよ、と言いながら。あたしがやってくると香帆ちゃんはいつも、
「なっきが来ると商売上がったりなのよ」
と、悪態をつく。あたしはママの娘だからタダでやってもらっているのだ。
「いいじゃない」
「それにすぐとっちゃうんでしょう。ああ、もったいない」
言いながら、香帆ちゃんはネイルアートの準備をし始めた。あたしの好みはママと似ていることを知っているので、なにも訊かずにつめを磨いていく。香帆ちゃんは美人だ。ママと香帆ちゃんのどっちがきれいかと尋ねられたら、うんと悩んだ末に、あたしはママと答えるだろう。香帆ちゃんはママがずっと前に働いていた所の後輩だった。だから今でも、あたしはなっきが知らない頃の美雪さんを知ってるのよ、と自慢げに話してくる。あたしのことをなっきと呼ぶのは香帆ちゃんだけだ。つ、を言うのが面倒らしい。他のひとにそう呼ばれることはいやだったけど、香帆ちゃんの「なっき」と呼ぶ声はやさしいから、香帆ちゃんだけはそう呼んでもいいことにしている。
あたしがつめをやってもらっている間、ママは店の奥で雑誌を読んでいる。ママは昨日、秋らしいモカが基調のネイルに変えてもらって、あたしを連れてくることを思い出したのだそうだ。
「ねえ、香帆ちゃんが知ってる昔のママってどんなひとだったの?」
「何度も言ってるでじゃない。店いちばんの美人で、いちばんの人気者だったって」
香帆ちゃんは長い前髪を邪魔そうに払った。
「だから、それだけじゃよく分からないの」
口をとがらせると、香帆ちゃんは降参したように言った。
「はいはい、なっきはあの人のことが聞きたいんでしょう。残念ながら、あたしはあの人に会ったことはないわ」
毒舌だけど、どんな質問にもさばさばと答えてくれる香帆ちゃんの性格は好ましかった。あたしはすこし毒のある性格の人と気が合うのかもしれない。結衣にしても、聖にしても、ふたりとも影と少量の毒を持っている。
「なんだ…」
あたしは落ち込んだふりをした。つや出しに集中している香帆ちゃんに聞こえたかはわからないけど。
香帆ちゃんの髪は短くて、ミルクティー色に染めた髪を顎のあたりで切りそろえている。香帆ちゃんを見ていると短い髪もいいと思えるのだけど、ママを見るとやっぱり髪は長い方がいいと思うようになるから、不思議。
「それより、なっきは最近彼氏とどうなの?」
香帆ちゃんは、席を立ち上がっておもむろに尋ねてきた。ママも香帆ちゃんも「最近どうなの?」ってよく訊いてくるけれど、あたしはなんて答えたらいいのかわからなくて困る。ただ、あたしと聖にとって、変わりのない日常が続いているだけだ。
「どうって、どうもしないよ」
あたしが淡々と答えると、後ろの棚からマニュキュアを数本出してきた香帆ちゃんは、おどろいた様子で目を見開いた。
「喧嘩したりとか、しないの?」
「べつに」
喧嘩なんて生まれてこのかたしたことがなかった。夢見がちなママにあきれることはあったけれど、あたしは基本的にママが好きだ。結衣とも、聖とも喧嘩なんてしたことはない。結衣とはときどき意見が合わなくてむっとすることはあるけれど、聖とはそういうことは全くなかった。依存なんてそんなものだ。依存している人に、きらわれたくないから。
「香帆ちゃんは彼氏と喧嘩したことある?」
「あるある。昨日もティッシュの箱を投げてやったら、すごく痛がってたもん」
ティッシュの箱はかどがいいのよ、かどが、と香帆ちゃんはつめを塗ることに集中しながらわらって答えた。香帆ちゃんは働いていたお店をやめてスクールに通い、夢だったこのお店を開いたらしい。会話をしながらもこんな細かい作業ができるだなんて、香帆ちゃんはやっぱりプロだ。いつの間にか、ラメ入りのあわいピンクのマニキュアに、パールホワイトのラインがつめの先に引かれた、かわいらしいネイルが出来上がっていた。
「はい、完成」
「きれー。やっぱり香帆ちゃんはプロだね」
あたしは感嘆のため息をもらした。歓声を聞きつけたのか、奥からCLASSY.を抱えたままママが出てくる。そして、あたしのつめを見て嬉しそうに言った。
「まあ、素敵じゃない。あたしも今度これにしてもらおうかしら」
「なっきは顔が女の子らしいから、ほんとにピンクがよく似合うわ」
香帆ちゃんが何気なく言った言葉に、ママは「あら」と言って不敵な笑みを浮かべた。
「夏姫にピンクが似合うように育てたのは、あたしよ」
まあ美雪さんの娘ですからねえ、と応える香帆ちゃんの声。きらきら光るピンクのネイルを眺めながら、あたしは複雑な気持ちになる。
そう――女の子はピンクが似合うんじゃなくて、似合うようにつくられる。
あたしは、孤独なママを心から愛しいと思っている。ほんとうに愛したあの人と一緒になれなかったママはとても孤独で、だからこそずっとそばにいてあげたいとも思う。
けれど、あたしを一身に愛してくれるママから逃げ出したくなるときがあるのも事実で。
あたしにピンクが似合うんじゃなくて、あたしがピンクに似合うように育てられたのだ。
ママに。


夕方から仕事のあるママとは駅で別れた。あたしはこれからひとりで家に帰って、夕食を食べなければならない。夕食はなんでも好きなものを食べなさい、とママから千円札を渡されたけれど、なにかを食べたい気分にはなれなかった。
ママから借りたヒールの高いスエードのブーツ。華奢なヴァンクリーフのネックレス。街の鏡に映るあたしは愛されている娘で、きっとママのお人形。
地元の駅で、頭のわるそうな男の子ふたり組に声をかけられた。ひとりはドクロのよく分からないプリントが付いたTシャツに、もうひとりは変てこなカウボーイみたいな帽子をかぶっていた。無視して通り過ぎると追いかけてきたから、にらむと舌打ちをして去っていった。頭のわるい人はきらい。インテリもべつに好きじゃないけど、どちらかというと話の分かるインテリの方がましだった。
もうずいぶん日も落ちて、空虚な休日が終わろうとしている。マンションの五階から見える景色はひどくさみしい。
休日になると、あたしはどうしようもなく聖に会いたくなる。電話やメールをすればすぐに会えるのだろうけど、そうすることはなんだか負けたみたいでいやだった。だって、何の連絡もないということは、聖はべつにあたしに会わなくてもいいのだ。
あたしだけが、聖を必要としている。それを認めることは、情けなくて、とてもかなしい。
聖に、会いたい。
会って、なんでもいいから話がしたかった。抱きしめてほしかった。
玄関に鍵を掛けて、あたしはその場にうずくまる。
切ないぐらいに、聖を想っていた。


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