7.雨と恋と憂鬱と

外は雨。気分を感傷的にさせる雨は大嫌い。
月曜は球技大会だった。この行事は主に体育委員会が仕切ってくれているから、生徒会の方は楽。そういうことをすぐに考えるあたしは、もうすっかり生徒会の人間だった。
今は三年生の予選で、A組とC組が対戦している。三年C組は聖のいるクラスで、体育館の至るところから「聖さーん」とか「宮川くん!」という黄色い声援が聞こえる。ほかの子から妬まれるのがいやだから、付き合っていることは結衣にしか教えていない(というか、彼女は敏感なのでばれてしまった)のだけれど、こういうときは無性にいらいらする。あたしはポケットからストロベリィ・ガムを取り出した。口の中に放り込むと、あまったるいイチゴの香りが広がっていく。
「夏姫、聖サンがサーブ決めたよ」
隣にいる結衣が、小声で楽しそうに試合の様子を話してくる。
「ふうん」
試合にはさして興味もないあたしは、髪を束ねていたゴムをほどきながら応えた。
「聖サン、かなりモテててるじゃん。さっさとカノジョだって言えば」
「いやよ」
そんなことをしたら聖の人気が落ちる上に、あたしはほかの女の子からにらまれるだけだ。あたしの悪口を言いたいのなら勝手に言えばいい。けれど、聖の悪口を言うのは絶対に許せない。あんなさみしい人に、これ以上さみしい想いをさせたくはないから。
その時、
「聖さんかっこいいよねえ」
と言いながら、あたしたちの後ろを通っていく女の子たちがいた。それを聞いた結衣は、面白そうに唇の端を上げる。あたしはそ知らぬふりをして手元の対戦カードをにらんだ。
そもそも、聖に依存しているのはあたしの勝手だ。告白してきたのは聖が先だったのだけれど、依存し始めたのはあたしが先だった。あたしは、いつもの強い仮面の聖よりも、ほんとは弱い聖に惹かれたのだ。どうしようもなく。
笛が鳴って、ゲームセットになった。
15-7
C組の勝ちだった。聖はクラスメートに囲まれている。端整な顔に微笑を貼り付けている彼の姿は、華やかゆえに孤独に見えた。あたしは熱を持った指で、生徒会の義務らしく対戦カードに15-7と書き込む。


あたしのクラスである二年B組も、二年D組に15-10で勝った。運動神経の良い子が多いし、結衣もぐだぐだ言うわりには体育が得意だった。あたしも球技は好きなので、あたしがボールを上げて、結衣が相手のコートに返すという連携プレーで点を入れた。ママは「体育なんて出来はしなかったわ」と言うので、あたしの運動神経はどこからきているのか不思議だ。
昼休みの予定には、『体育倉庫でバスケットボール出し 会長・副会長』と言う記述があった。予定表を作った聖の魂胆がみえみえで、あたしはげんなりさせられる。体育倉庫に行くと、そこにはもう聖の匂いがあった。倉庫の扉をそっと開けると、窓にもたれかかって煙草を吸っている聖の姿が見える。聖はほんとうに無駄にきれいだ。均整のとれた体に、あまいマスク。十五歳にして、煙草の似合う憂いの表情を持っている。
「聖さん」
すこし声を変えて言ってみると、聖はあわてて靴で煙草の火を揉み消した。そしてあたしの顔を認めるなり、ほっとしたような、残念そうな微妙な顔つきになる。
「……夏姫、心臓にわるいんだけど」
あたしはわらいながら倉庫の扉を閉めた。倉庫の中は相変わらずほこりのにおいがして、雨のせいなのか湿気がひどい。
「ちょっと、いじわるしたくなったから」
「こんな俺、夏姫以外に見られたら大変だよ」
吸い始めだったらしく、まだ長さのある煙草を拾い上げると残念そうな顔をした。
「こんな所で吸ってる方がわるいのよ、人気者」
聖は首をすくめる。あたしはそういう仕草をする聖が好きだ。インテリっぽい。辺りを見回して、適当なひくい跳び箱の上に腰かける。
「大活躍だったわね。女の子の歓声がうるさかった」
「妬いた?」
「べつに」
あたしは暗い窓の外を見やった。陰鬱な雨は、まだ降っている。そんなあたしを見て、聖は、ふうん、と面白がるような口ぶりをした。彼はわかっているのだ。あたしがどんな気持ちでそれを聞いていて、どんな気持ちで試合を見ていたかを。わかっていながらもそんなことを訊くなんて、すごく偏屈だけど、それが聖らしいとも言える。先に電話やメールをすることが負けだと思っていたけれど、あたしはとっくに聖に負けていたのだ。
聖を前にすると、あたしはどうも無防備になる。抵抗できなくなって、是が非でもぜんぶ受け入れてしまいそうになる。
「夏姫」
気がつくと、きつく抱きしめられていた。あたしの髪に指をうずめ、唇を重ねる。
思わず息を吐く。
本当の居場所は、ここだった。ママのそばや、自分の部屋よりも、もっと安心できる場所。それが、聖の腕のなかだった。
あたたかさに、泣きたくなる。
長い、長いキスだった。
途中、苦しくて抜け出そうとすると、もっと強く抱きしめられる。
「…夏姫?」
心配そうに顔をのぞきこんでくる聖を見て、あたしはようやく頬をつたう涙に気がついた。
顔を見られたくなくて、聖の胸に顔をうずめる。大きな背中に手をまわすと、想いがせきを切ったようにこぼれだした。
「会えなくて、さみしかった」
ああ、もう完全にどうかしている。考える前に、次々に言葉があふれてくる。
「聖は平気かもしれないけど、あたしは全然平気じゃないのに」
自分でも何を言っているのかよくわからない。けれど、あふれた言葉は真実だった。あたしはずっと聖に遠慮していた。きらわれたくなかったのも大きかったけど、これ以上に彼に依存することを覚えれば、抜け出せなくなると思っていた。
依存はとても甘美。ただ、それだけに身を委ねていればいいのだから。同時に、底なし沼のような恐怖も伴うことも知っている。ママはあの人に出会って依存し、手に入れたのに失った。幸せは短くて、焦がれた世界はあっけなく消え失せてしまう。
聖はあたしを引き寄せて、髪にそっととくちづける。
「ごめん、夏姫」
そっと腕を放すと、聖はあたしの顔を見つめてほほえんだ。
「夏姫は俺にずっと遠慮してただろ?もっと、俺を頼ってくれていいよ」
あたしは黙ったまま、こくりとうなずいた。聖は目をほそめて、あたしの目の端に溜まった涙を指でぬぐう。
「むしろ、頼ってほしい」
もう一度抱きしめられて、あたしはまた泣きそうになった。腕のあたたかさ。聖のやさしさ。無力な自分。ずぶずぶと深みにはまってしまったあたしは、もうひとりで抜け出すことができない。焦がれて、焦がれて、ようやく手に入れた唯一の居場所。
それが、聖だから。
あたしもママみたいに恋におぼれて、いつかは聖のために身を引くとしても、この刹那的な幸福があればそれでいい。
心からそう思った。


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