9.かなしい成長

ひさしぶりの晴れの日だった。青い空は高くて、とても澄んでいる。雨ばかりの日が続いていたから、晴れの日は嬉しい。
今日は生徒会があった。真美先輩の席は、予想通り空席だった。
「真美はどうしたの?」
もうひとりの書記である千佳先輩が、不思議そうに聖に尋ねた。あたしは隣にいる聖の顔をちらりと見る。
「辞めるって。辞表もちゃんともらったから」
そう言って、聖は緑色のファイルから真美先輩の辞表を取り出した。『事務的な手続きを経て、彼女は辞めました』という雰囲気だ。辞表の丸くてかわいらしい文字は、確かに真美先輩の筆跡。
「そんな、急にどうしたの?」
千佳先輩は、とてもおどろいている様子だった。この様子だと、真美先輩は聖のことが好きで、生徒会に入ったことを知っていたのだろう。真美先輩が言わなくても、彼女の様子を見ればすぐにわかることだったけれど。
「これからは、受験勉強に専念したいからだそうだよ。もうすぐ模試もあるしね」
聖はひどくビジネスライクな口調で言って、辞表をファイルの中にしまった。淡々とした報告。千佳先輩はへんな顔をしていたけれど、他の人たちは特に気にしていない様子だった。
「じゃあ、十一月の生徒会の予定について――」
聖のよく通る声によって、定例の会議が始まった。
勉強もスポーツもできる完璧な生徒会長。弱さなどないように見えるけれど、ほんとうは弱さだらけの人だということに誰も気付きはしない。
やさしくて、残酷な聖。真美先輩は辞めたのではなく、彼によって辞めさせられたのだ。
聖の俊敏な行動には、あたしでさえ思わず感心させられてしまうときもある。彼はやさしさだけでは生きていけないことを知っているし、ときにはずる賢くに立ち回らなければならないことも知っている。あたしも大人びていると言われることが多いけれど、聖は本物の大人だった。彼を取り巻く環境と期待のせいで、大人にならざるをえなかったのだ。
それに対して、あたしは背伸びした子どもなのだろうか。それとも、未熟な大人なのだろうか。どちらにしろ、聖のように大人にならざるをえなくて大人になってしまうことは、とてもかなしい成長だと思う。
香帆ちゃんや草野さんは、あたしと聖の関係を「中学生らしくない恋愛」だといつも言う。じゃあ、どういうのが「中学生らしい恋愛」と呼べるのだろう。恋愛という甘美な響きにとらわれて、盲目になることだろうか。もどかしいほどに、相手との距離が縮まらないことだろうか。そんなの、本物の感情とは呼べない。「中学生らしい恋愛」なんていう安っぽいものなら要らない。あたしが欲しいのは、ストロベリィ・ガムのように、心から依存できる人だけ。それ以外は、もう何もいらなかった。
――例えその先がどれだけ不幸でも、破滅的でも、刹那の幸福があるのならそれでいいの。
それが、何も語らないママが教えてくれた、唯一の生きる術だから。


会議室から階段を下りて、裏庭へ向かう。紺色のナイロン製のかばんの中には、コンビニで買ったキャットフード。今日はひさしぶりにジュリエットに会いに行こうと思う。世渡りがうまい、あの気まぐれな黒猫は元気だろうか。
裏庭にまわった瞬間、あたしはぎょっとした。先客がいたのだ。しばらく見ない間にすこし大きくなったジュリエットは、首のあたりをなでられて、気持ち良さそうに喉をゴロゴロと鳴らしている。
「これが、夏姫が飼い慣らしていた猫?」
先客の聖は、ジュリエットを抱えてふり向いた。
「飼い慣らしてなんかないわよ」
聖からジュリエットを受け取って、地面におろす。聖の手から離れた瞬間、ジュリエットは名残惜しそうに「なぁ」と鳴いた。あたしは複雑な気持ちになる。この黒猫はすっかり聖に懐いてしまったようだ。
「ふうん。夏姫にそっくりだな」
聖は面白そうに言う。あたしは何もこたえず、キャットフードを地面に置いた。お腹が空いていたのか、ジュリエットはすぐに飛びつく。動くたびにコロコロと鳴る鈴。赤いりぼん。
「どうして聖がここにいるの?」
ジュリエットのほつれかけた赤いりぼんを結びなおす。今度来たときは、新しいりぼんに換えてあげようと思いながら。
「職員室から帰る途中、この猫が寄ってきたから遊んであげてたんだよ」
聖はわらいながらジュリエットを見つめた。こういう時の聖のわらい方は、いつもとはちがう。いつもはもっと余裕があって華やかなのだけれど、今は影があってさみしい感じがする。あたしは、そういう表情をする聖が好き。
「名前は?」
「ジュリエット」
淡々と答えると、聖は校舎の壁にもたれて苦笑した。
「夏姫が付けそうな名前だな」
「でしょう?」
その通りだと思って、あたしもつられてわらってしまう。
それは、幼い恋に焦がれて死んでしまった少女の名。愚かしいけれどその気持ちがわからなくもないあたしは、やっぱり破滅的な道を進んでいるのだろうか。でも、この道を戻ることはできないし、戻りたいとも思わない。
満腹になったジュリエットは、気持ち良さそうに地面に寝そべっていた。


水曜日の夕方、ママと散歩に行った。秋の散歩は好き。秋は暑くもなく、寒くもない季節だから。ママにそう言うと、「合理的な考えね」と呆れたように言う。合理的に考えることはとても大切だと思う。前から思っていたのだけれど、ママには合理的な思考というものが欠けている。何をするにもおっとりしていて、効率がわるいのだ。
信号が赤から青に変わり、ママはフレアスカートをばさばささばきながら歩き出す。カツカツと、地面を突き刺すようなヒールの音は軽やか。ママは歩くのがはやい。幼い頃、ピンヒールを履くママのほそい足は、凶器みたいで怖かったことを覚えている。
あの頃、あたしには世界のなにもかもが恐怖だった。大きな音を出す車、見上げきれない建物、騒がしい託児所の友達。そんななかで、あたしに安らぎを与えてくれるのはママだけだった。ママの手を握っていれば、どこへだって行ける。そう信じていた。
「今日は風が強いわねえ」
ママの茶色の髪がふわふわと風にゆれている。肩をふるわせて、ママはこげ茶色のジャケットのボタンを閉めた。そう言われると確かに風が強くなってきた気がして、あたしはベランダに出したままの観葉植物が倒れていないか心配になる。
川が見たい、とママが言ったので、あたしたちは近くの川まで足をのばした。夜の川面は不規則にきらめいて、幻想的な雰囲気を醸し出している。小石を投げ込むと、ぽちゃんというやわらかい音を立てて水の中に吸い込まれていってしまった。こういう時、なんだか取り返しのつかないことをしてしまった気がするのはどうしてだろう。
ママは足場のわるい川辺を、小石を避けながら器用に歩く。
「危ないわよ」
あたしが言うと、ママはくるりとふり向いてほほえんだ。
「大丈夫よ。夏姫は心配性なんだから」
ママは無防備で、無邪気で、目を離すとどこへ行ってしまうかわからない。まるで子どもみたいな人だ。
水際は風がつめたく、あたしはカーディガンの袖をさすった。腕時計を見ると午後七時前。そろそろ家に帰りたい。
「ママね、そろそろお店を変えようと思うの」
ママは醒めた声で言った。後姿は遠くおぼろげで、華奢な体つきが脆さを露呈しているみたいだった。
「ふうん。また捕まえられそうになったの?」
あたしはわざとあかるい声で言った。捕まえられるなんて、まるで逃亡中の泥棒のよう。でも、ママの立場はその泥棒と似ていなくもないのかもしれない。
ママは長い髪を耳にかけて、ふっとわらう。
「そうね。今も近くまで来ているそうよ」
わらっているけれど、そう言うママの声がかなしそうなことに気がつくと、あたしはなにも言えなくなってしまう。ママはどこのお店で働いても重宝される。美人で接客上手だし、店内の片付けだっていつも丁寧にしてから帰る。それでも、ママはおなじお店で一年と働いたことはなかった。
追いかけてくる人がいるから。
それからママは、今のお店のオーナーから新しいお店を紹介してもらったから生活に困ることはない、ということを早口でまくし立てた。こういう時、中学生のあたしは黙ってうなずくしかない。どれだけ大人ぶっていても、あたしはまだママに頼って生きるしかない子どもなのだ。
「でも」
顔を上げると、ママはもうずいぶん先まで進んでいた。立ち止まって、留まることのない川の流れをぼんやりと見つめている。しずかでも正確に流れ、留まることを知らない川は、冷たさを残しながら指の間をすり抜けて行く。
「もう、だめかもしれない」
ママは独り言のように弱々しくつぶやいた。
会いたいのに、会えない。それはどんなにさみしいことだろう。
あの人は今でもママを探し続けている。
それでもママは、あの人の平凡な幸せを壊すことはしない、と誓ったのだから。


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