10.終わらない物語

あたしはママの過去を知らない。
どこで生まれて、家族が何人いて、どんな生活を送っていたのかも。
ママの過去は、あたしの中で真っ白なのだ。
あたしが生まれた時、ママは二十一歳だった。ママは高校を卒業して、すぐに家を出たらしい。その理由は知らないし、これから知ることもないのかもしれない。あたしがママの昔に関して言えることはふたつだけ。ひとつめは、ママはまちがいなく幸せに育ってきたということだ。そうでなければ、あんなにもおっとりとした、すべてをゆるすような寛容な性格ではいられないと思う。
ふたつめは、ママがあの人と報われない恋に落ちたこと。その頃のママたちを知っている人たちに言わせれば、とても美しい、完璧な組み合わせだったらしい。けれど、ママはあたしが生まれることが分かると、すぐにあの人の前から消えてしまった。
あたしはママの物語の中で生きている。未だ終わることを知らないその物語の中で、出口を探してさまよい続けている。あたしはママの物語の一部なのだ。
いつか、あたしは冬生まれなのに、どうして、夏姫、なのかを訊いたことがある。
ママはすこし困ったような顔をした。それから、あたしの額と自分の額をくっつけて、弱々しくほほえんだ。
「あなたは、ママの大事なお姫さまだからよ」
秋の冷え込んだ日だった。テーブルの上のココアからは白い湯気が立ちのぼり、エスプレッソメーカーは、こぽこぽとやわらかい音を立てていた。
窮屈すぎるぐらい、ママがあたしを愛してくれているのはわかっている。けれど、それがほんとうの理由ではないことぐらいすぐにわかった。
なにかを知るには狭すぎる、ママとあたしの閉ざされた世界。けれど、ママという親鳥は、番(つがい)をなくしても雛のあたしを護ってくれている。だから、あたしはこの世界から飛び立てない。
大切な親鳥を見捨てて飛び立てるほど、非情にはなれないでいる。


ママが仕事でいない日、あたしはたまに草野さんのバーで夕飯をごちそうになる。草野さんは妙に西洋かぶれした人なので、日本食はつくらない(日本食は古くさいらしい)。その代わり、チーズたっぷりのグラタンや地中海風リゾットは絶品だった。あたしはいつものスツールに腰掛けて、本日のメニューであるパエリアを食べる。さわやかなサフランの香り。BGMは『ムーンライト・セレナーデ』。あたしもママも好きな、とてもきれいな曲。でも、きれいな曲はすこしかなしい。
「草野さんって、料理上手ですよね。ママとは大ちがい」
くるくるとまわるミラーボール。ぼんやりながめていると、そのきらめきに飲み込まれそうになる。草野さんはシャンパングラスを磨きながら、軽やかにわらった。
「僕の料理は本場仕込みだからね。美雪さんと比べちゃ、かわいそうだよ」
草野さんはイタリアで三年間、料理の修業をしてきたそうだ。童顔だから伸ばしたらしい鼻の下の髭や、英語とイタリア語を流暢に話すところにその名残が表れている。
「どうして海外に行こうと思ったんですか?」
「逃げたかったんだよ」
あたしは目を瞬かせた。ちょうどお客さんが入ってきて、店のドアからつめたい秋の夜風が入り込んでくる。ほかの従業員が接客にまわったので、草野さんは銀色のスプーンを磨きながら話を続けた。
「とにかく、逃げ出したかったんだ。僕はなにかを持つということがきらいでね。逃げて全部捨ててしまおうと思った。逃げてしまえば、今までのしがらみはなくなったよ」
逃げ出して、すべてを捨てる――草野さんはなんて大胆なことをしたのだろう。同時に、そんなことを行動に移してしまえる草野さんの潔さが、羨ましくも思えた。
あたしは、まわりが思うほど行動力のある人間ではない。小学校の学級委員だって、中学校の生徒会だって、全部周囲のお膳立てがあったからなれたのだ。それでも、なにも知らないクラスメートは「夏姫ちゃんはすごいね」と言う。その度に心はちがうと叫んでいるのだけれど、そう言えずに曖昧にわらっている自分がいた。あたしはときどき、そんな自分がいやで仕方がなくなる。
――女の子は保護欲をかきたてられるくらいがちょうどいいよ。全部自分で決めてしまう女なんておっかない。
聖はそう言ってくれたけれど、それではだめなのだ。やさしい聖はあたしを甘やかしている。このままではいけない。聖のいない日常なんて考えられなくなるほど、あたしは彼に依存した人間になり果ててしまう。
あたしがパエリアを食べ終えたのをみると、草野さんは冷凍庫からハーゲンダッツのアイスクリームを出してくれた。まだら模様のクッキーアンドクリーム。あたしはそれを、さっきまで草野さんが磨いていたスプーンでざくざく掘る。
「だから、草野さんは結婚しないんですか?」
いつでも逃げられるように。
あたしの真剣な目を見て、草野さんは可笑しそうに目をほそめた。
「そうだね。僕はなにかを背負うということがきらいなんだ。いつも身軽でいたい。恋愛は、他人の話を聞くだけで十分だしね」
それは、自分の幸せをあきらめた人だけが言える言葉だと思った。


帰りは、草野さんが送って行くと言ってくれた。「夜道を女の子ひとりで歩くなんて危険すぎる」のだそうだ。ときどき思うのだけれど、草野さんはママみたいに過保護な面がある。あたしにパパがいれば、こんな風に心配してくれたのだろうか。
「あたし、草野さんがパパだったらいいのに、ってずっと思ってたんです」
草野さんと海沿いの道を歩きながら、あたしは言った。潮の匂いがする。草野さんは片眉を上げて、そう?と言った感じの表情をつくった。
「でもだめだな。逃亡願望のある人じゃ」
なにが面白かったのか、草野さんは大きな声でわらいだした。そして満足そうにうなずきながら、鼻の下の髭をなでる。
「僕も、夏姫ちゃんのお陰で父親を擬似体験させてもらっているよ」
「それはそれは」
あたしはにっこりとほほえんだ。頼もしい草野さんには、あたしもママも心から感謝している。けれど、あたしには父親と言う存在のことがやっぱりよくわからない。
傍らには黒い海。夜の海は、黒い絵の具を塗りつぶしたみたいで好きじゃない。この国道は歩行者がすくないのをいいことに、ときどき車が猛スピードで通り過ぎていく。ぶうぅん、という人工的な音のあとにしずかな波の音が聞こえると、ひどく不調和な感じがするのだ。
「草野さんって、ママのことが好きだったんですよね」
後ろを歩いている草野さんからは、何も聞こえなかった。返事を求めるようにふり向くと、草野さんは黒いズボンのポケットに手を入れて、降参したように首をすくめた。
「まあね。ずっと昔の話だけれど」
だからこそ、ママと、その娘であるあたしのことを気に掛けてくれている。
潮風が長い髪にまとわりつく。つんとつめたい夜の匂い、寄せては返す波の音。すべてが、狂おしいほどのやさしさに満ちている。やさしさは時に痛い。あたしは、凪いだ海をぼんやりと眺めながら言った。
「報われない恋って、かなしくないですか?」
すると、草野さんはおどろいたように目を見開いた。
「やっぱり、夏姫ちゃんは美雪さんの娘だな。美雪さんにもおなじことを訊かれたよ。あの人と別れてすぐのころに」
その頃を懐かしむように、きゅっと目をほそめる。
「それで、草野さんはなんて言ったんですか?」
「What do you think about it? ――あなたはどう思いますか?」
草野さんは瞳の奥を揺るがしながら、なめらかな英語で尋ねてきた。あたしは苦笑する。そのあとに続く答えなら、あたしがいちばん知っているのだから。
「例えその先がどれだけ不幸でも、破滅的でも、刹那の幸福があるのならそれでいいの」
「That’s right」
ピュウゥ、と草野さんは口笛を吹く。あたしたちはくすくすとわらいあった。あたしはその言葉が好きだ。ママとあたしの狂おしい恋が、ぎゅっと濃縮されている感じがする。
ふたりで他愛のない話をしていると、クリーム色のマンションが見えてきた。ママとあたしのちいさな住まい。ママに連れられて引越しは何度かしたけれど、あたしは今の家がいちばん気に入っていた。戸々の窓から漏れる光を見ていると、あんな細長い建物のなかにどれだけの人が住んでいるのだろう、と不思議な気持ちになる。
ふいに草野さんは歩調をゆるめた。つられて歩調をゆるめると、草野さんは長いため息をつき、黒いふちの眼鏡を掛けなおしてあたしに向き直った。
「ずっと、言うべきか迷っていたんだけど」
いやな予感がした。普段あかるい草野さんが暗い表情をするなんて、いい話であるはずがない。
「二・三日前にあの人が僕の店に来たよ。思いつめた様子で、美雪さんの所在を訊いてきた」
「それで?」
顔が強張っているのが自分でもわかる。草野さんは、あたしの緊張をほぐすようにほほえんでみせた。
「美雪さんにも釘をさされている上、お客さんの個人情報は守る主義だからね。知らないし、しばらく会っていないと言っておいたよ」
「そうですか…」
――もう、だめかもしれない。
あたしたちはずっとあの人に追われている。
だからママは、ずっとずっと逃げてきた。あの人の平凡な幸せを壊さないように――本当は会いたいのに――逃げてきたのだ。それなのに、どうしてあの人はこれまでのママの努力を無にしようとするのだろう。
今さら会いたい、だなんて。
草野さんは淡々とした口調で言う。
「会いたくないのならそれでもいいと思う。でも、夏姫ちゃんはあの人と会うべきだと思うよ。やっぱり、あの人は」
「いいです、それ以上言わなくて」
つらくなって、あたしは草野さんの言葉を遮った。
草野さんの言うことは正しいのかもしれない。あたしはあの人と会って、ちゃんと話をするべきなのかもしれない。でも、あたしにそんな勇気はなかった。なにも知らないあの人と話をするなんて、考えただけでも立ちすくみそうになる。
「ありがとうございました。ママに、気をつけるよう伝えておきますね」
あたしは無理に笑顔をつくって、あかるい声で言った。草野さんはまだ物言いたげな表情をしていたけれど、片手はポケットに入れたまま、なにも言わずに手をふってくれた。あたしはその様子にほっとし、手をふり返してマンションのドアを開ける。無駄にあかるいエントランスを通り抜けて、エレベーターの中でしゃがみ込んだ。
どうしてあたしたちを探そうとするの?どうしてあきらめてくれないの?
頭の中は、あの人への疑問でいっぱいだった。エレベーターはしずかに上がっていく。あたしとママは、あたしたちなりに幸せに暮らしている。あの人にも、あの人の平凡な幸せがあるはずだ。それなのにどうして、終わった世界を取り戻そうとするのだろう。
――でも、夏姫ちゃんはあの男と会うべきだと思うよ。
わかってる。わかってるよ。他人が言うと簡単に聞こえるけれど、あたしにはそれがとても難しいことなのだ。ママは心から愛したあの人のことを忘れようとしていた。けれど、あの人はあたしたちのなかで確かに存在し続けていた。
会いたい、のかもしれない。
会いたくない、のかもしれない。
どちらが正しいのか、全くわからない。ずっと、わからないままでいいと思ってきたのだから。
頭の中がぐちゃぐちゃのまま、五階の部屋の前で立ち止まる。息を吸うのが苦しい。もどかしい手つきで鍵を開けると、部屋の中に転がり込んだ。
「……っ」
どうすればいいのだろう。ママは、あたしがどうすることを願っているのだろう。
ママとふたりだけの世界が窮屈だと嘆きながらも、この世界が壊れてしまうことを、あたしはずっと恐れていた。
玄関のドアにもたれて、そのままずるずると座りこむ。唇を噛み締めると、うっすらと血の味がした。夜はきらいだった。真っ暗でなにもなくて、不気味なくらい無情でつめたい。
誰もいない世界。ひとりぼっちの夜。
あたしはひとり、果てしなく深い夜の底に、取り残されてしまった気がした。


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