11.愛にはぐれたリアリスト 真っ白な天井。 目を開けた瞬間、最初に認識できたのはそれだった。ゆるやかな覚醒を意識しながら、ここはどこだろうと虚ろな頭で考える。 白いカーテンが風にはためいている。窓の外はあかるい。糊のきいた白いシーツ。安っぽいパイプのベッドは冷たく、 ここは、どこだろう――― きょろきょろと辺りを見渡していると、衝立のカーテンがざあぁっと開いた。 「いいかげん起きなよ、夏姫」 現れたのは、不機嫌そうな顔をした結衣だった。だらしなく結ばれたセーラー服のネクタイが、彼女のふて腐れた顔を引き立てているようにみえる。 「結衣? なんで…」 「まだ寝ぼけてんの? ここ保健室なんだけど」 ちっと舌打ちをして、結衣は長い前髪を面倒くさそうにかきあげた。 「あんた二時間目からずっとここで寝てたの。今は昼休み」 言われて、あたしははっとした。そうだ。昨日の夜は全然眠れなかったから、ここで休んでいたのだ。それでも、まだ頭がぼんやりとする。起き上がろうとすると、結衣は隣のベッドに乱暴に腰掛けた。 「べつにそのままでいいって。あたしもサボるつもりで来たし」 「そうなの?」 様子を見にきたのに、ぞんざいな口調。それもなんだか結衣らしいと思って、あたしは思わず苦笑してしまう。結衣は不快そうに眉をひそめた。 「担任も夏姫には甘いよねー。教室も、本人いないのをいいことにあんたの話ばっかだし。今度マジで告ろうかな、だって。はっ、バっカみたい」 結衣は吐き捨てるように言い、ほそくて長い足を気だるそうに組んだ。あたしはいちおう、ふうん、とだけ答えておく。勝手な想像だけど、結衣はちゃんと三食摂っていない気がした。 白いカーテンが風にはためき、窓の外からは、体育の笛の音と号令が聞こえてくる。こうして授業の外にいると、学校というのはひどく規則正しく動いているのがよくわかる。遅刻して学校に来るときもそうだ。学校の中から歓声や校内放送が聞こえてくると、自分がよそ者になった気がする。学校は慣れる場所。でも、逆に慣らされてはいけない場所だと思う。 「あーぁ」 結衣はくたっとベッドに倒れこんだ。ギシギシ、とパイプベッドがゆがんだ音を立てる。 「わるかったわね、起こしに来たのが王子様じゃなくて」 「だれもそんなこと言ってないわよ」 あたしが笑うと、結衣もつられたように笑った。結衣の髪は最近、赤っぽい茶色になった。チェリーブラウンという色らしいのだけれど、その色は光に当たるととてもきれい。 「べつにサボりに付き合ってくれなくてもいいのに」 言うと、結衣は布団を頭からかぶって寝始めた。わざとらしい寝息が可笑しい。 「…あんたがいないと、つまんないのよ」 その言葉は、小さくてもあたしの耳にはっきりと聞こえた。隣のベッドにいる結衣は、布団をかぶって寝たふりをし続けている。ほんとうに素直じゃない親友だ。あたしは結衣の不器用さにあきれて――けれどそれさえも愛しくて、笑顔のままため息をついた。 「ありがと、結衣」 あたしだって、結衣がいなければ、きっと学校なんてつまらなかった。 結衣はちらりとあたしを見る。そして、チークで強調された頬をほんのすこしだけゆるませた。 最近、聖とまったく会っていない。三年生の受験勉強も正念場にかかってきたらしく、生徒会が開かれないからだ。職員室のまえで、血走った眼で先生と相談している先輩も多くなった。学校全体がなんだか慌しい感じ。あたしも来年の今ごろは、あの先輩のように血走った眼で先生と相談しなければならないのだろうか。 もうすぐ、別れの時がくることは知っている。 あたしは聖の進路についてはなにも知らなかった。知ろうとも思わないし、知りたくなんてない。その話については、腫れ物を扱うようにどちらともなく避け続けてきたのだ。 聖が、なんとなく進路の話を持ち出そうとしていた時期があったことは知っている。でも、あたしは精一杯気付かないふりを通した。ばかみたいだと思いながら、あたしは聖から現実を突きつけられるのがとてもこわかった。聖は、あたしがいなくてもきっと上手くやっていける。彼の広い背中が、いつでもそれを物語っている。 けれど、あたしは。 聖がいなくなったら、あたしはどうすればいいのだろう。 冷たい木枯らしが吹く中、あたしは荒んだ気持ちで街を歩いていた。風が、セーラー服の襟を唆していく。通り過ぎるカップルや家族連れは、幸せそうにわらっている。くだらない。 秋は、どうしてこんなにも胸に突き刺さる季節なのだろう。 あたしはウォークマンのヴォリュームを上げた。アヴリル・ラヴィーンの「MY HAPPY ENDING」が流れる。陳腐な邦楽は聴かない。アヴリルの直線的な歌声には胸がスッとさせられる。これが失恋ソングだということは知っているけれど、あたしはときどきかなしい歌が聴きたくなって仕方がなくなる。 YOU WERE EVERYTHING, EVERYTHING THAT I WANTED――― 思えば、かなしい歌がすきになったのも聖と付き合い始めてからだった。最初から別離の予感がする依存だったのだ。あたしは自暴自棄になりながら、そらぞらしいほどにぎやかな街をずんずん歩いていく。 その時、後ろにふっと人の気配を感じた。 「なっき!」 振り向くと、そこには大きな紙袋を肩に提げた香帆ちゃんがいた。白いカッターシャツを羽織り、ぴったりとしたジーンズにウエスタンブーツを合わせた活動的な格好だ。 「どうしたの?」 あたしはイヤフォンを取った。 「ちょうどよかったわ。あたし今からロフトで椅子をみようと思ってたとこなの。付き合ってくれる?」 相変わらず、香帆ちゃんはさばさばとした口調で言う。 「いいけど」 仕事用の折りたたみ式の椅子が欲しいのだという。あたしは香帆ちゃんに連れられて、ロフトの三階で折りたたみ式の椅子を見た。真っ赤ないちごが背もたれになっている椅子や、いかにも事務用といった感じの灰色の椅子が並んでいる。 「なっきは何色がいいと思う?」 「みず色」 あたしは適当に――それでも『ジュエリー』の店内を思い浮かべながら――答えた。香帆ちゃんは、 「みず色ー?」 と言いつつも、パステルカラー調の紫の椅子を手にとってしげしげとながめると、それを持ってレジへ直行した。あたしは香帆ちゃんの適当ぶりに拍子抜けする。何色がいいか訊いたときには、香帆ちゃんのなかで色は決まっていたのだ。結局のところ。 荷物が多くて大変そうな香帆ちゃんの代わりにあたしがその椅子を持ち、ふたりでスターバックスに行った。香帆ちゃんはアイスカフェラテ、あたしはキャラメルフラペチーノとスコーンを頼む。香帆ちゃんのおごり。四人がけのテーブルにふたりで座ると、香帆ちゃんはヴィトンのポシェットから煙草を取り出した。香帆ちゃんが好きなのは赤いメルボルン。あたしにはそれぞれがどうちがうのかわからないけれど、聖に言わせれば味がちがうらしい。 「冬休みになったらお店に来なよ。あんたに似合いそうなラインストーン入荷したの」 「うん」 香帆ちゃんは、ふーっと煙を吐いた。そしてアイスカフェラテをごくごくと飲む。 「香帆ちゃんこそ、最近はうちに遊びにこないね」 香帆ちゃんは同棲している彼氏と喧嘩すると、いつもうちに『避難』しにきていた。そういう時は、夜中までトランプをしたり、おしゃべりしていてもママに怒られないから、特別な夜みたいで楽しかったのだけれど。 香帆ちゃんはわらう。 「そうね。そこまで派手な喧嘩することもないし」 なにせ、香帆ちゃんとその彼氏は三年ぐらい同棲しているのだ。親に挨拶に行くのが面倒、という不精な理由で同棲生活を引きずったままだと言っていた。 「それより、なっきは彼氏と何かないの?」 香帆ちゃんが目を輝かせながら言う。どうも香帆ちゃんは、中学生の恋愛事情というものにとても興味があるらしい。あたしに聞いても無意味だと思うのだけれど。 「べつに」 あたしはスコーンをちぎりながら言う。 「なにそれー。つまんない」 香帆ちゃんはテーブルに頬杖をつき、黒い灰皿にぱらぱらと灰を落とした。 「前から思ってたけど、あんたたちってほんとに中学生らしくないカップルよね」 何も言わずにスコーンを口の中に放り込む。香帆ちゃんは不服そうな顔つきで、煙草をもう一本取り出した。 「最近会ってないけど」 その声は、自分でもずいぶんと沈んでいるように聞こえた。 「そっか。なっきの彼氏って、受験生だもんね」 あたしはこくりとうなずく。香帆ちゃんは気を使ったのか、その先のことは何も訊いてこなかった。訊かれなくてよかったと思う。ただでさえ聖と会えない日が続いているのに、聖の進路のことを訊かれたら、あたしは本気で泣く気がした。 しばらく、ふたりともなにも話さなかった。聖なみにヘビースモーカーの香帆ちゃんは煙草を吸い続け、あたしは店内で行きかう人たちをながめていた。ノートパソコンを難しい顔で睨んでいるサラリーマンと、おしゃべりな若い主婦のグループ、あとはたいてい暇そうな女子高生。ああいう女子高生は無理してきれいになろうとしている人が多くて、幼さの残る顔に合っていない化粧は、逆にへんだと思う。 「なっきは知ってる?」 ふいに、香帆ちゃんは尋ねてきた。 「女の子はね、あまいお菓子とすこしの不幸でとても美しくなるのよ」 「うそ」 あたしは小さくわらった。それは根拠のない迷信みたいなもの。それでも、香帆ちゃんはわらわなかった。 「ほんとよ。あたしは色んなところできれいな女の子を見てきたけど、幸せだった女の子はいないわ」 そう言えば、香帆ちゃんも美人だけれど、幼い頃から家庭環境に恵まれていなかった、とママから聞いたことがある。そして、あたしのママもきれいだけれど――あの人は、完全に不幸なひとだ。 「だから、なっきはもっともっときれいになると思うわ。悔しいけど」 「あたしがこれから不幸になるってこと?」 内心そんなに怒っていなかったけれど、あたしは語気を強めて言った。香帆ちゃんは首を横に振る。そういう意味じゃないわ、と言いながら。 「なっきは今の日常がずっと続くって、信じてるわけじゃないでしょう?」 心臓が止まるかと思った。 その動揺を悟られないように、表情を変えずにキャラメルフラペチーノを飲む。 香帆ちゃんは、ちゃんとあたしという人間を分かっている。あたしが目の前の現実から逃げていることも、このまま放っておくと危険だと言うことも。 「確かにあんたは美雪さんよりはリアリストよ。でも、このままじゃだめになるわ」 香帆ちゃんは真剣な眼差しで言った。あたしは目をそらす。香帆ちゃんが心から心配してくれているのは痛いぐらいにわかる。そして、あたしは近いうちにだめになる自覚もある。このままだめになってしまうと、どうなるのだろうか。あたしはきっと、心を深く暗いところまで追いつめて、自分の心を傷つけていくような気がする。腐ったりんごが他のりんごまでをも蝕んでいくように、その闇をどんどん増幅させながら。 けれど、あたし自身ではどうしようもなかった。そうなってしまったあたしは誰にも止められない。ママや香帆ちゃん、結衣でも無理だ。唯一止めることができる人がいるとすれば――きっと、聖だけだから。 「でも、もう何も知りたくないの」 ママのことも、あの人のことも、聖のことも。 いずれ失うのなら、最初から手に入れなければよかったのに。 失くすことが怖いから、あたしは現実から目をそらしたままでいる。真実を知ることを、拒んでばかりいる。 「なっき…」 嘘みたいににぎやかな店内。人々のわらい声、くだらない会話。コーヒーと煙草の混ざったにおいは煙たい。香帆ちゃんは頑ななあたしに見切りをつけたように目を伏せ、煙草を灰皿にぎゅっと押し当てた。 あたしは何も言わずに頬杖をつきながら、窓の方をみやる。 窓越しに見える外の世界では、もうすっかり色づいた楓の葉が、はらはらと風に散っていた。 |