13.ふたりぼっち

そう言った瞬間、聖の切れ長の瞳が凍りついた。
苦しそうに顔をゆがめて、気を紛らわすように髪をかきあげる。
「ちがうよ。俺は夏姫じゃないとだめなんだ。だから、そんなこと言うなよ」
「うそ」
あたしは手を振り払った。すると、骨が折れそうなほど強い力で腕をつかまれた。
「聞けよ、夏姫。ちゃんと全部話すから」
滅多と感情を表に出さない聖が怒っている。あたしは腕の力を弱めた。すると、聖はほっとしたような顔つきになる。
夜はつめたく、不思議なくらい冴え冴えとしている。しんとしていて、生き物のすべてが耳を研ぎ澄ましているみたいだ。あたしは公園の外灯を見上げる。夜の明かりは、外灯だけ。月や星なんて、あたしたちには、なんの慰めにもならないくらい遠かった。
「…俺と初めて会った日、夏姫は覚えてる?」
聖は、弱々しくわらいながら尋ねてきた。あたしは首を横にふる。
いきなり生徒会室に呼び出された日のことは覚えているけれど、聖の口調からすると、それ以前のことを指しているようだった。聖はさみしそうな笑みを浮かべる。
「だろうな。でも、俺にとって夏姫と初めて会った日のことは、忘れられないぐらい印象的で、絶対副会長にしようと思ったんだ。そうしたら、いやでもそばにいてくれるから」
聖は黒い空を仰いだ。目をほそめて、その時のことを思い出しているようだ。
吐く息は白く、すぐに空中へ消えてゆく。
「夏姫は副会長になってくれた。始めは、素っ気なくてもやさしい夏姫を見ているだけでよかったんだ。だけど、それだけじゃ耐えられなくなって、俺は夏姫に告白した。夏姫が、俺に情けに似た好意を持ってくれているのは、感づいてた。同情でもよかった。それほど、俺は夏姫が欲しかったんだ」
―――好きだ。
誰もいない放課後の生徒会室で。あの時のことなら、今でも鮮明に思い出せる。夕日の差し込む窓辺。響き渡る吹奏楽のクラリネット。野球部の声。夕暮れのなか、あたしはあまりにもストレートな言葉に戸惑っていた。聖の真っ直ぐな瞳。はぜるような頬の熱。その言葉は信じがたくても嬉しかった。華やかで人望が厚いのに、ふいに翳りを見せる聖に、あたしは確かに惹かれ始めていた。
「俺は夏姫と会って変われたよ。ずっと自分のことばかりだったけど、こういう時、夏姫はどうするだろうとか、どうすれば夏姫が喜んでくれるだろうって、考えられるようになった」
聖はあたしに向き直った。思えば、彼はまた身長がぐんと伸びた気がする。
そうして、聖も知らない間に遠くなってしまうのだ。
「けど、それは夏姫を巻き込むことだったんだよな。…ごめん。俺があの時、夏姫に告白しなければ、俺のことで、夏姫がこんなにも苦しむことはなかったのに」
ふたりの間に流れる、別離の予感。
出会ったときから流れていたその予感は、時が経つにつれてどんどん膨らんでいった。
それは最初から決まっていたことで、誰のせいでもないのに、聖は自分のせいだと言い張っている。全部ひとりで抱え込もうとするのは、聖の悪い癖だ。
そんなの、ずるい。
「きらい…」
視界がぼやけて、目に涙があふれた。聖ははっと目を見開く。
「聖の、そうやって全部自分の責任にしてしまうところが、大っ嫌いよ」
「ごめん」
泣き出したあたしを見て、聖は悲しそうに顔をゆがめた。腕を伸ばして、あたしの頭を抱え込む。あたしは聖の胸に顔をうずめた。世界でいちばん安心できる場所。この場所を失うことなんて考えられない。どうしても、あたしは聖でなければいけないのに。
聖は腕の力をゆるめた。息を吐いて、そっとつぶやく。
「俺、他県の高校を受けることにしたんだ。そこに合格したら、寮に入る」
「え…っ?」
あたしは顔を上げる。聖は気丈に笑ってみせた。
「その学校、有名な医歯薬進学コースがあるんだ。まだ行けるかどうか分からないけど、そこを志望してる」
他県の高校。そこに合格したら寮に入る―――
頭が混乱していて、何を言ったらいいのかわからない。聖のためを思うのなら、応援してあげるべきなのはわかっている。けれど、あたしにはそれができなかった。
離れていく聖を、心から祝福することなんてできない。
あたしは駄々をこねる子どもみたいに、首を横にふって、精一杯の拒絶をした。
あたしの髪をなでながら、聖は苦しげにつぶやいた。
「ごめん、夏姫…」
物事を知らないふりをするには年を重ねすぎていて、大切なものを守るためには幼すぎる。
あたしたちは、出会うのが早すぎたような気さえしていた。
中途半端な十四歳と十五歳。現実は知っている。だれど、永遠だって、まだ信じていたい。
あたしは、聖の胸に額をぎゅっと押し付けた。
やさしくしないで欲しかった。冷たくあしらってくれたら、傷ついてでも、あきらめることができたかもしれないのに。まだこんなにも与えてくれるから、あたしは聖をあきらめることができない。
「だから、待っていて欲しい。夏姫が待っていてくれるなら、どこにいても頑張れる」
聖はあたしの耳元でそう言った。顔を傾けて、指先でそっとあたしの唇をなぞる。
そうして、唇が触れる。
それは、今まででいちばんやさしい、かすめるようなキスだった。
聖のやさしさに涙があふれる。喉の奥が焼けるように痛い。聖がそばにいてくれるのなら、ほかには何もいらないのに。なのに、どうして思うようにいかないの?
誰もいない真夜中の公園。ふたりぼっちの世界。
あたしはただ、このちいさな幸せが、永遠に続いて欲しいだけなのに。


聖のママは夜勤だと言うので、あたしは聖の家にあがった。あたしのママも、朝まで帰ってこないから外泊しても心配はない。母親が働いていることや、父親が不在のこと。こうして見てみると、あたしと聖の家には共通点が多いように思えた。
「母さんが潔癖症だから、部屋はきれいだけど」
と言いながら、聖は家の鍵を開けた。あたしはいちおう、お邪魔しますと言ってから部屋にあがる。
始めに通されたリビングルームは、聖の言う通り、整然としていてきれいだった。けれど、あまりにも整いすぎたそれは、生活感のないモデルルームみたいでもあった。聖の家のマンションはとても豪華だ。部屋は広々としていて、天井も高い。これだけ快適そうな家なのに、聖は家にいるのが好きじゃない。
「夏姫は、うちに来るの何回目だっけ?」
聖は冷蔵庫を覗いてオレンジジュースを取り出すと、それをふたつのグラスに注いだ。
「たぶん三回目」
一回目に遊びにきたときは、聖のママと初めて会った。つやつやの髪を、肩で真っ直ぐに切りそろえた、色の白いきれいなママだった。いきなり「聖をよろしくね」と言われて、目の前で涙ぐまれたのにはびっくりしたけれど、わるい人じゃなかった。二回目は、なぜか聖のママと一緒にケーキを作った。とても楽しそうだったから、それはそれでよかったのだと思う。聖に言わせれば、聖のママはあたしのことを気に入ってくれているらしい。
聖の部屋は煙草の匂いでいっぱいだった。机の上に無造作に積み重ねられた問題集、開いたままの参考書、その傍らには空になった煙草の箱と、黒い灰皿がある。
「煙草くさい」
あたしが顔をしかめて言うと、聖は可笑しそうにわらった。
「換気はしたよ」
聖は窓を半分だけ開けた。冷たい秋の夜風が流れ込んでくる。
聖の部屋はよく言えば整然とした部屋で、わるく言えば息の詰まりそうな部屋だ。人によっては、生活感のないこの部屋に居心地のわるさを覚えるかもしれない。棚のうえにはうすい液晶テレビが置かれ、本棚には難しそうな題名の本がびっしりと並べられている。あとは勉強机と最新型のデスクトップパソコン、それに広いベッドが置いてあるだけだ。
勉強机の上に広げられているのは、理科の問題集とノートだった。そこには、オームの法則の計算が、きれいな文字でびっしりと書き込んである。
あたしはクッションにもたれて、ぼんやりと聖の部屋をながめた。
ここは、彼の心そのものみたいだった。部屋はその人の心を映すとよく言うけれど、聖はそれがよく表れていると思う。簡素で整っていて、必要最低限のものしかない、さみしい部屋。
あたしをこの部屋の家具で例えるのなら、どれがいちばんぴったりなんだろう。ふいに、そんなことを考えてしまう。
「さてと」
ジュースを飲み終えた聖は、パチリと勉強机の電気を付けた。
「俺はまだ勉強するから、夏姫はそこのベッドで寝たらいいよ」
あたしが目を瞬かせている間に、聖は椅子に腰かけて再び勉強を始めた。
「夏姫、最近ちゃんと寝てないだろ? だから早めに寝た方がいい」
「そうだけど…聖はどこで寝るの?」
すると、聖は椅子をくるりと回転させて向き直った。
「俺が夏姫の隣で寝て、正気でいられると思う?」
真面目な顔できわどいことを言うので、あたしは聖の顔面にクッションを投げつける。
聖はさっとクッションを避けて、この状況を楽しんでいるようにわらった。
「ばかっ」
「冗談だよ、俺は床で寝るからご心配なく」
ひらひらと手をふってから、聖はまた勉強机に向かった。
あたしは床を見やる。こんな硬くて冷たそうなところで、聖はほんとうに眠れるのだろうか。疲れている受験生を床で寝かせるなんて――それはさすがに気が引けたあたしは、リビングからクッションを集めてきて、ベッドの真ん中に線を引くようにして並べた。
「左はあたしの場所だから、入ってこないでね」
聖の背中をにらみながら言うと、「はいはい」と呆れたような声が返ってきた。
ほんとにこれで大丈夫だろうか。不安になったあたしは、もう一度クッションをきれいに並べ直してから、ベッドに入る。聖のベッドはふかふかだった。その心地よさに、あたしはすぐに寝入ってしまいそうな気がした。
「おやすみ…聖」
そう言うと、聖はふり向いて、やわらかくほほえんだ。
「おやすみ」
あたしはその笑みを焼き付けるように、そっとまぶたを閉じる。
いずれ失うのなら、最初から手に入れなければよかった。
そうやって、あたしはいつも、大切なものを失うことを恐れてばかりいる。
けれど、手の中に収まる量は決まっているかのように、何かを得ると、何かが確実に抜け落ちてゆく。
どうして、永遠に持ち続けることはできないのだろう。
一筋の涙が、頬をつたう。
聖の匂いが濃やかに漂う部屋の中。
確実に近付く別離の時を、あたしはしずかに感じとっていた。


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