14.招かざる来訪者

昔、ママはこんな話をした。膝の上に、ちいさなあたしをのせて。
「ママは、あの人と出会ったことをすこしも後悔していないわ」
ママはわらって、あたしの額にキスをする。
「ねえ、夏姫。恋をするのはとても素敵なことなのよ」
冬の寒い夜。窓がかたかたと揺れていて、その音がとても怖かったことを覚えている。
湯気のたったココアに、ママの好きなブラックコーヒー。狭いけれど小ぎれいに整えられたアパートの一室。あたしは父親の顔を知らない。それでも、さみしさを感じたことはなかった。それほど、あたしの世界はママの存在だけで満ち足りていた。
「じゃあなつきも、いつか恋をするの?」
「そうね。夏姫はこんなにもかわいいもの」
ママはあたしの耳のうしろをなでた。あたしはママにそうしてもらうのが好きだった。ママも、あの人にそうしてもらうのが好きだったと言う。
「あの人は、ママのことがすきだったんでしょう?」
「ええ」
ママはブラックコーヒーを啜った。コーヒーの芳ばしい匂い。ママは煙草が好きだけど、あたしがいる所では滅多に吸わない。
「じゃあ――」
言いかけて、あたしはすこし躊躇する。子ども心に、その先は尋ねてはいけないことだと分かっていた。尋ねたらきっと、あの人がここにいない現実を思い出して、ママはかなしんでしまう。それでもあたしは言葉を続けた。
「じゃあ、どうしてあの人はママのそばにいないの?」
ママはふっと遠い目をする。そして視線をあたしに戻すと、無理に笑顔を浮かべてみせた。
「…そうね、あの人はどうしてここにいないのかしら」
アパートの窓はしまりがわるくて、風が吹くたびにすきま風が入ってくる。しずかな部屋に、ガタガタッ、という窓の音が耳障りだった。同時に、あたしは確信する。
パパは、永遠にママに会いにこないのだと。
かわいそうなママ。愛して、愛して、狂おしいほど恋におぼれたのに、あの人とは一緒にいられない。
「さ、もう遅いから寝ましょう」
ママはあたしを寝室に連れて行った。そして、きれいなソプラノの声で『星に願いを』を歌ってくれたことも覚えている。『星に願いを』は、あたしとママの子守唄だった。
けれど、あたしは知っている。ママが夜中にいつも泣いていたことを。
ママは、恋をすることは素敵なことだと言う。
でも、そんなさみしい思いをするのなら、あたしは恋なんてしないと誓った。


その日は朝からずっと曇り空で、朝からいやな予感がしていた。
何か起きて欲しくないことが起きそうな感じ。野球部のクラスメートが雨になることを願っている横で、あたしは彼と全然ちがうことを考えながら、暗い空を見上げていた。
昨日、名前も知らない男の子から告白された。髪の毛をつんつんさせた子で、学年はたぶん同じ二年生だと思う。断ってもあきらめてくれないから、あたしはかばんを持って逃げ帰った。
中学生の恋愛なんて、だいたいが数週間で飽きるものだ。本気なんかになれない、遊びの恋愛。そんな安っぽい感情なんて、あたしには必要なかった。
意味のない六時間目のHRはなかなか終わらない。手持ち無沙汰に、ポケットに入れたストロベリィ・ガムを触る。結衣の席は空席。たぶん、水曜日恒例のサボりだ。彼女の装ったりしない素直さと潔さが、あたしはときどき羨ましくなる。
ようやくHRが終わったようで、学級委員長の声でみんなは一斉に起立した。


放課後になっても、空はまだ曇っていた。雨が降りそうで降らない、とてもいやな天気。あたしは雨が降らないうちに早く帰ろうと、マフラーを首に巻きつけながら足早に校門に向かっていた。十二月の北風は身にしみるほど冷たい。グレーのダッフルコートの前をかき合わせ、ポケットに手を突っ込んだ。
十二月。そういえば、もうすぐあたしの誕生日だ。
冬生まれなのに、夏姫、と名づけた理由について、ママは下手な嘘をついたままだから、その由来は永遠に知ることがないのかもしれない。それに仰々しく誕生日と言っても、アンテノールの大きなケーキを買ってきて、ふたりでそれを食べるだけの話。
校門から一歩出たところに、長身の男の人が、壁にもたれて煙草を吸っていた。
背の高いすらりとした体形には黒いロングコートが似合っていて、憂いを帯びたきれいな顔つきで煙草を吸っている。
学校の前で、この人は何をしているのだろう。通りすがりにその人の顔をちらりと見ると、なぜか目が合ってしまった。目鼻立ちのくっきりとした精悍な顔立ちで、食い入るようにあたしの顔を見てくる。いやな予感がしたあたしは、急いでその場を離れようとした。その時、その人は口を開いた。
「夏姫?」
不思議そうでいて、どこか確信めいた低い声。その声にあたしは囚われる。背後で、じゃりっという靴で煙草をもみ消す音が聞こえた。行かなきゃ、とあたしは無理にでも足を動かそうとした。こんな人は知らない。これぐらいの年の男の人なんて、草野さんしか知らない。
「夏姫だよな?」
すばやくあたしの前に回ってきたその人は、焦っているような、戸惑っているような表情をしていた。
知らない。肯定する必要なんてない。こんな人なんて、あたしは知らなかった。顔を見られないように――ママとそっくりな顔を見られないように――地面に視線を落とす。
「通してください」
「話があるんだ」
大きな手で、腕をがしりとつかまれる。怖かった。有無を言わせないその人の剣幕にひるむ。どうしてあたしを知っているの?あたしは、こんな男の人なんて知らないのに。
――もう、だめかもしれない。
――二・三日前にあの人が僕の店に来たよ。
その言葉を思い出した途端、背筋がぞっとした。
「放してっ!」
手をふりほどこうとした瞬間、その人の手の方が先に離れる。おどろいて顔を上げると、目の前には見慣れた人の背中があった。
「彼女に、何の用ですか?」
冷たい声が、冬の冴えきった空気の中で響く。その人の手を捻り上げている聖は、あたしを背に庇うような形で立っていた。
「話があるだけだ」
その人は手を引き、ばつが悪そうにつぶやいた。苛立ったように髪をかきあげて、威圧感のある鋭い目つきで聖をみる。
「君こそ、なんだ?」
聖はふうとため息をついて、面倒くさそうに制定かばんを肩に掛けなおした。
「ここの中学の生徒会長ですよ。夏姫は俺の彼女です」
その人は目を見開いたあと、意外にも安堵したような顔つきになった。
「…そうか」
何なのだろう、この人は。強引な方法であたしを連れて行こうとするのに、急にやさしげな表情を浮かべたりするから、わけがわからない。
聖も彼の表情には虚をつかれたようで、すこし沈黙してから、強い口調で言った。
「それで、話の用件は?」
「美雪の話を、聞きたくないか?」
その人は聖を見ずに、背後にいるあたしに視線を向けてきた。胸が痛い。そんな真剣な目で見ないで欲しい。
あたしは、あなたのことがずっときらいだったのだから。
「…ママは、あなたに過去を話したんですか?」
あたしにでさえ、ママが隠し続けている過去の話。
「ああ。夏姫には辛いかもしれないけど」
答えずに黙っていると、聖は心配そうな表情でふり返ってきた。
「夏姫、聞きたくないならはっきり言った方がいい」
あたしは首を横にふる。そうじゃない。話は聞きたいけれど、戸惑っているのだ。ずっと、あたしに父親なんていないと思って生きてきたから。
誰もが当たり前のように持っている父親という存在が、すごく羨ましかった時期もある。あたしにとっての父親とは、会いたくても会ってはいけない存在だったのだ。ずっと蔑ろにされていたのに、突然目の前に現れて、「話がある」だなんてふざけている。それでも、あたしはこの人と会って、ちゃんと話さなければいけないような気もしていた。
「……聞きたい。だって、誰も教えてくれないもの」
絞り出すような声で言うと、聖はあからさまに不快な表情になった。彼のつめたい瞳が、やめろと言っていることはわかっている。シビアな聖の予感はほぼ的中する。それを間近で見てきたあたしは、聖の制止に逆らってまで聞こうとする勇気がなかった。
不安げな表情のあたしと、あからさまに不機嫌な聖。
そんなあたしたちの顔を見比べて、その人は苦笑しながらポケットに手を突っ込んだ。流れるような仕草で、この人の動作はとてもきれいだ。これぐらい背が高ければ、背の高いママと歩いていても映えただろう。
彼はポケットから白い箱を取り出し、煙草を抜き取った。青い線はマイルドセブン。それに気付いた聖は、端整な顔をますますゆがませる。煙草に火を付けようとしたところで、その人はあたしをみて穏やかに微笑した。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな。俺の名前は、斉藤夏樹だよ」
なつき。
聖がはっと目を見開く。
その瞬間、あたしはすべての『わけ』がわかった気がした。
夏樹。
夏姫。
ああ、この名前は呪縛だ。
ママがあたしの名前の由来について、うまく答えられなかった理由。
嘘でもいいから、どうしてもっと上手に言ってくれなかったのだろう。もっと上手な嘘だったら、あたしはその嘘を信じ続けていたのかもしれないのに。ママはあの人を忘れようとはしていなかった。消えない真実。それが、今ここで浮かび上がった。
「ママは、きっとこうなることを望んでいたわ。自分のいないところで、あなたとあたしが会うことを」
むなしくて、やるせない気持ちになる。
――あなたは、ママの大事なお姫様だから。
見え透いたあまい嘘。あたしの名前を呼ぶたびに、ママはこの人のことを想っていたのだ。
あたしはぎゅっと拳を握り締める。
もう逃げることは許されないし、逃げようとも思わない。
「いいわよ、ママの思うとおりにしてあげる。あなたの話を聞くわ」
聖は心配そうにあたしの顔を見て、その人はやれやれと言ったように肩を落とす。
その時、図ったように細かい雨が降り始めた。


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