15.望んだ夢、その先に

窓の外では、うす暗い街に冷たい雨が降りしきっている。
あたしは何となく、この雨は夜まで降り続きそうな気がした。
あれから、斉藤さん――実の父親だけど、そう呼ぶことにする――に連れられて、彼が穴場だという喫茶店までやってきた。いちおう各テーブルが衝立みたいなので仕切られていて、込み入った話もできそうな場所。べつに込み入った話なんて、するつもりないけど。
「好きなものを頼んでいいよ」
正面に座っている斉藤さんは、ポケットから煙草を取り出しながらほほえんだ。
あたしは彼の顔をちらりと見てから、メニューに視線を落とす。コーヒー豆に力を入れているお店らしく、お好きなブレンドも可と書いてあった。あたしはきらびやかなケーキの欄を飛ばして、コーヒーの欄をじっとながめる。斉藤さんは水を飲み、ため息をついた。
「夏姫の彼氏は怖いね。あれはいい大人になりそうだよ」
そうですか、と適当に答えながら、メニューをぱらぱらとめくる。聖とは学校の門の前で別れた。「夏姫の家の前で待ってる」とだけ言い残して行ってしまった。雨のなか、傘も差さずに去っていく聖を追いかけたい衝動にかられたけれど、これは、あたしと斉藤さんの問題なのだ。無関係の聖を巻き込むわけにはいかない。
にこやかなウエイトレスにメニューを尋ねられたので、あたしはウインナコーヒー、斉藤さんはジャーマンブレンドを頼んだ。
「さて、夏姫は何の話から聞きたい?」
斉藤さんはソファーに座りなおして足を組み、なんでも言ってごらん、というような顔つきになった。この人は、会ったばかりの娘にどうしてこんな砕けた態度を取れるのだろう。
「その、なつきって、自分のことを言っているみたいで気持ちわるくならないんですか?」
斉藤さんは煙草に火をつけ、大きな目を見開いてあたしを見た。
「全然。むしろ、美雪は俺のことを忘れてなかったんだなって、嬉しくなるよ」
胸がちくりと痛む。そう、この名前はあたし自身とはまったく関係がないのだ。ただ、ママが愛した人の名前を刻むために付けた名前だった。
「奥さんとは、どうなったんですか?」
あたしは皮肉を込めた口調で言った。ママは斉藤さんの家庭を守るために、ずっと逃げていたのに。すると斉藤さんは、煙を吐きながら肩をすくめた。
「冷め切った関係だよ。お互い両親が五月蝿くて、別れられないままだ」
あたしはぶすっとした顔つきで、そうですか、と言いながら窓の外を見た。寒そうな雨。通りを歩いている人たちは、みんな身を固くしながら歩いている。冬は四季の中でいちばんきらいだった。真っ白でひらすらに静寂な、あたしの生まれた季節だから。夏が饒舌なら、冬は寡黙な季節だと思う。
斉藤さんは目をほそめてわらった。それは、世間の父親が娘をみるような目つきで、何だか背中がむず痒くなる。あたしはまだ、この人を父親と認めたわけじゃない。
「なんですか?」
眉根を寄せながら言うと、斉藤さんは苦笑して灰皿に灰を落とした。木製のつやつやしたこげ茶色のテーブルの上には、マイルドセブンの箱が置いてある。聖とおなじ銘柄の煙草。
「顔もそっくりだけど、そうやって頬杖をつきながら外の景色を見る癖も、夏姫と美雪はおなじなんだな」
そう言われて、あたしは慌てて頬杖をやめた。あたしとママはちがうのだ。斉藤さんは可笑しそうにくっくと喉を鳴らす。あたしは斉藤さんの顔をぎろっとにらんだ。
「ママは、あなたを捨てたのよ」
「そう言われると堪えるな。あなたはママを捨てたと言われた方がまだましだ」
運ばれてきたジャーマンブレンドにミルクを入れて、斉藤さんはすこしさみしそうな表情をした。あたしはクリームのいっぱい浮かんだウインナコーヒーを飲みながら、その精悍な顔をじっと見つめる。
「美雪は見ての通り、仲のいい両親の間に生まれて幸せに育ってきたよ。父親はサラリーマン、母親は専業主婦という、本当に平凡な家族でね。じゃないと、あんな性格にはなれないだろう?」
あたしは黙ってうなずいた。団体客が入ってきたようで、ふいに店内が騒がしくなる。斉藤さんは、コーヒーをスプーンでていねいにかき混ぜながら続けた。
「でも、美雪が十八歳の時に母親が病気で亡くなったんだ。これがすべての始まりだった。父親は早くに妻が亡くなったことで、精神を病んでしまった。二人は高校の同級生で、とても仲が良かったらしい。頼るべきものをなくして、人は生きてはいけないよ。夏姫も、それがわかるだろう?」
「…うん」
斉藤さんはあたしの目をじっと見てきた。なにかを図っているみたいに。あたしも負けじと彼の目を凝視する。その鋭い目つきだけでも、他人に畏怖を与えることのできる人だ。
「そして、父親は自殺したんだ」
自殺―――
あたしはごくりと唾を飲み込む。ママが隠し続けてきたのは、思いも寄らない壮絶な過去だった。母親が病死して、跡を追うように父親も自殺。そんなつらい状況、あたしには想像も出来ない。その時、ママはどんな気持ちでいたのだろう。天真爛漫でふわふわと不安定なママ。そんなママのやわらかい印象が、あたしのなかでがらがらと崩れていく。
「両親を亡くしてしまった美雪は、高校を出て働きだした。親戚に引き取られたらしいけど、折り合いが悪くて家を出たらしい。美雪はあの美貌と大らかな性格ですぐに店の人気者になった。そんな時、俺は美雪と出会ったんだよ」
斉藤さんは、懐かしむように遠い目をした。愛しさにあふれている表情。ママも斉藤さんの話をする時は、おなじような顔をしていた。
「美雪と出会ったことを、後悔なんてしていない。たぶん、美雪もそう思っているだろう。むしろ、人生でいちばん幸せな時だった。確かに俺の家は滅茶苦茶になったけど、後悔なんてしていない。夏姫が生まれたことも」
その言葉に、心臓が飛び上がりそうになる。あたしは自分を落ち着かせるように、手をぎゅっと握りしめた。いきなり核心を突くなんて反則だ。斉藤さんの顔をにらむようにして見ると、彼は端整な顔に穏やかなほほえみを浮かべていた。あたしは内心の動揺を悟られないように、ゆっくり息を吐いてから言う。
「ずっと思ってたんです。あたしを生まなければ、ふたりは世間に許された恋じゃなくても、一緒にいられたかもしれないのにって」
「そう。俺は夏姫がそういう罪悪感を持っているんじゃないかと思ってた。だから、こういう場で、ふたりで話したかったんだよ」
今さら気が付いたのだけれど、この人の話し方は聖に似ている。それは、ママの血を確実に受け継いでいることの証だった。おなじような男の人に惹かれて、依存した。あたしとママはちがう。ずっとそう思ってきたけれど、本質的にはおなじだったのだろうか。
コーヒーを飲み終えた斉藤さんは、煙草を一本抜き取り、火をつけた。
「でも、答えはもう自分で見つけているだろう?」
必要なことは教えてくれる。でも、答えは教えてくれない。それは自分で考えて見つけなければいけないと、やさしく突き放してくれる。出会ってからの短い時間で、斉藤さんはそういう人だとわかってきた。
「……生まれる前から、あたしを愛していたから」
そう答えると、斉藤さんは満足そうにうなずいた。
「夏姫は賢いね。さすが俺の――」
言いかけて、口をつぐむ。
その様子を食い入るように見つめていると、斉藤さんは苦笑した。
「夏姫が生まれていなくても、きっと美雪とは一緒にいられなかったと思う。一緒にいればいるほど、互いを壊していく関係だったから」
斉藤さんは他人の心の機微に鋭くて、自分の気持ちにもとても正直な人だった。さっきあたしのことを娘だと呼ばなかったのも、あたしがまだ父親だと認めていないことをわかっていたからだ。あたしはウインナコーヒーを飲み干す。さすがコーヒー豆にこだわっているお店だけあって、そのへんのお店で飲むコーヒーより格別においしかった。斉藤さんは煙草の煙をゆらしながら、窓の外を見ていた。外はもう真っ暗で、雨音も強くなっている。
こうしてふたりでおなじ景色を見ている状況なんて、以前のあたしには考えられなかった。
あたしは、ずっと父親という存在をきらっていた。その人がどういう人物かも知らないで、勝手な父親像を作り上げてきらってきた。きらわなければ、彼があたしたちの傍にいないことに、納得することができなかった。
「恋愛って、何だと思いますか?」
斉藤さんは白い煙をゆっくりと吐き出しながら、虚ろな目であたしを見る。
まるで、あたしの顔にママの面影を探しているかのように。
「俺にとっては、夢、かな。きれいなきれいな幻想だよ。目の前に現れたところで、決して手に入れることはできない。美雪みたいにね」
美しい雪――そんな名前を持つママも、あたしとおなじ冬生まれだった。
あたしの存在は、斉藤さんと別れたママにとって、唯一の希望だったにちがいない。病院には、ほかの妊婦さんを見舞いに来る旦那さんやその両親がたくさんいる。彼女たちは、幸せのなかで子どもを産む。ママは、その光景をどんな気持ちでみていたのだろう。両親は早くに亡くなり、愛する人にはもう会えない。世間は浮かれたクリスマス。きらびやかなツリーのイルミネーション。これからママの誕生日を祝うのは、お腹の中にいる子――あたししかいない。ママは何があっても、あたしを守ろうと誓ったのだろう。脳裏には、孤独でやさしすぎるママの姿がありありと浮かんでくる。
――さすが夏姫ね。すばらしいわ。
それが、ママの口癖だった。思い出すたびに胸が痛くなるあまい言葉。その言葉が嘘ではないことは、あたしがいちばんよく知っている。彼女は心からあたしを愛し、自分の世界に閉じ込めてきたのだから。
あたしは、ぎゅっと唇を噛み締めた。
ママのかなしく狂った世界を壊してあげられる人は、あたししかいない。
あたしだって、ママの世界に永遠にいることを許されるのなら、ずっとそこで生きていたい。けれど、それは叶わない夢に過ぎなかった。どうしても。
ママは早く、現実というものを知らなければならない。
喫茶店の窓は白く曇っている。この寒さでは、雨は雪になるのではないかと思えた。
「あいつはきれいでとんでもなくやさしくて、だからずっと守ってやらないと、と思っていた。妻とはすぐに別れるつもりだった。でも、美雪は自分から姿を消した。俺の家を守るために。皮肉だよな…本当は、俺がずっと美雪に守られてたんだ」
斉藤さんは自嘲的に言った。自分のことを言っているのにも関わらず、それはあまりにも的確な言葉で、あたしは何も言えなかった。
「そういう夏姫は、恋愛って何だと思う?」
「依存だわ」
即答したあたしに、斉藤さんは好奇心に満ちた目を向けた。
「じゃあ夏姫も、あの彼氏に依存していると思う?」
こくりと首を縦にふる。
「依存してる。ものすごく」
「素直だな」
斉藤さんは灰皿に煙草を押し付けた。くっきりとした笑顔のウエイトレスが来て、失礼します、と言ってグラスに水を注いでいく。長身の男性と女子中学生。まわりの人には、あたしたちはどんな風に映っているのだろう。やっぱり、父と娘にしか見えないのだろうか。
「じゃあ彼氏の方は?」
「それは…よく分からないけど」
答えたあたしの声は、ほんとうに自信がなさそうに響いた。聖はあたしがいなくてもやっていける。けれど、それは表面上のことで本心かどうかはわからない。本心でなければいいのだけれど。斉藤さんは、夏姫は謙虚だな、とやさしい声で言った。
あたしは恋なんてしないと誓っていた。もう、ずっと昔から。ママのようなつらい想いをするのなら、一週間ぐらいで壊れる安っぽい感情なら、要らないと思っていた。けれど、そんなことを考えていたあたしも聖に出会い、依存して、彼を失うことをなによりも恐れている。大切なものを失ってきたママも、ほんとは恋なんてするつもりではなかったのかもしれない。
「こんな勝手に生きている俺のこと、父親だとは思わなくていいよ。でも、これが俺からの最初で最後の頼みだと思って聞いて欲しい」
はっとして斉藤さんを見る。そこにはひどく真剣な目があった。店内は暖房が効いていて暑く、水の入ったグラスには水滴がついている。
「一度だけでいい。美雪と会わせてくれないか?」
なにも言わずに、あたしは首を横にふった。
「どうしても?」
斉藤さんは、念を押すように尋ねてきた。
「…どうしても」
あたしがそう言うと、斉藤さんは瞳を翳らせた。普段の余裕のある強気な口調も、ふいにさみしげな表情を見せるところも、この人はほんとうに聖によく似ている。
あたしとママはおなじだった。
ただ、その想いの行方がちがっただけで。
「会って…謝りたいんだ」
斉藤さんは苦しそうに顔をゆがめ、絞り出すような声で言った。
「ママは、あなたに謝ってもらいたいだなんて思ってないわ」
毅然とした態度で言い放つ。あたしだって、斉藤さんの気持ちがわからないわけではなかった。でも、ここであたしが妥協してしまうと、ママの今までの努力がすべて無駄になってしまう。会えばきっと、ママも斉藤さんもまた依存しあう。斉藤さんが言った、互いを壊していく関係。これ以上、ママのかなしみを広げるわけにはいかない。
目を伏せた斉藤さんは、もう何も言わなかった。
煙草を取り出そうと、マイルドセブンの箱を取る。中が空っぽであることに気付いた彼は舌打ちをし、ぐしゃりと握りつぶして灰皿の中に放り込んだ。


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