16.ストロベリィ・ガム 喫茶店から出ると、雨はさらにはげしさを増していた。 こんなことになるんだったら、いつも学校に置いている折り畳みの傘を入れてくればよかった。斉藤さんはコンビニまで走って傘を買いに行くと言ったけれど、けっこうですと断ると、じゃあ俺も雨がやむまで待ってると言い出した。 「本当にいいのか?」 やみそうにない雨をみながら、斉藤さんは言う。 「いいんです」 あたしは喫茶店のクリーム色の壁にもたれながら、ぶっきらぼうに返した。自分でもなかなか強情な性格だと思う。斉藤さんは呆れたように首をすくめた。雨が降り出した上に、夜はぐっと冷え込んで寒い。あたしは白い息を吐いて、コートのポケットに手を突っ込んだ。隣にいる斉藤さんも、ポケットに手を入れている。 こんな寒空の下、一緒にいてもらう義理なんてないのに、斉藤さんはこうして待ってくれている。あたしは、彼の願いは叶えられないと言ったのだ。ママに会わせて欲しいという願いを。 「甘やかさないでください」 ちいさな声で呟くと、斉藤さんは不思議そうにあたしを見た。 「雨に濡れたら風邪を引くとか、心配ぐらいさせてくれ」 にこりとわらいながら言う。苦しくなって、あたしは視線を落とした。 「やさしくされると、つらいんです。あたしは誰かにやさしくしてもらえるほど、いい人じゃないのに。どうせなら、世の中はもっと厳しいんだって教えてくれなきゃ」 ママや聖、草野さんたちも、みんなあたしをあまやかしている。彼らは、あたしにたくさんのものを与えてくれた。けれど、あたしはその好意を返すことが何一つできないでいる。 それが、つらかった。 他人のやさしさは、自分の無力さを突きつけられているみたいでもあった。 「やさしくされるとつらい、か…」 斉藤さんは自販機で買った煙草に火をつける。この人もなかなかのヘビースモーカーだ。なにかに依存しなければ生きていけない人。 ヘビースモーカーは破滅願望のある類の人間だと言って、聖はわらっていた。ひどく自嘲的に。 「美雪もおなじようなことを言っていたよ。俺と会ってすぐの頃に」 「あたしとママはちがうわ」 強い口調で言うと、斉藤さんは心外そうな顔をした。雨に濡れた黒いコンクリートの道路はぴかぴかと光り、時おり通る車は水しぶきを散らしていく。 「もしかして、美雪に似ているって言われることがきらいなのか? そう言ってる相手は、たぶん最高の褒め言葉だと思って使ってるのに」 あたしはうなずく。 「あたしとママはおなじだけれど、ちがうもの」 ママは美人だし、そっくりと言われて嬉しくないことはない。ママはあたしをとても誇りに思ってくれているし、あたしはママが喜んでくれることがなによりの幸せだった。 でも、ときどき疑っていた。あたしはママの人形のような存在ではないのかと。美しく着飾らせて、ママの世界に閉じ込めておく人形(ひとがた)。そんな存在ならば、かなしいとしか言えなかった。かなしくて、やるせない。 「似てるって言われるの、きらいなんです」 ふうん、と鼻にかかった声で言いながら、斉藤さんは白い煙を吐いた。その冷え切った横顔にぞくりとさせられる。斉藤さんはきっと、あたしの答えに納得していない。 「夏姫はずいぶんたくさんのものを拒んでいるんだな」 「……もう、失くしたくないから」 そう言ったあたしの声は、とても弱々しく悲痛に響いた。 あたしの手の中にあるのは、数少ない大切なものだった。やがて失われることはわかっていても、最後の破片をも拾い集めている。新しいものを拒み続けて、大切なもの守ろうとしていた。まちがった守り方だということはわかっている。それでも、新しいものなんて欲しくなかった。あたしには、いま手の中にある大切なものさえあればいいのだ。それなのに、大切なものは指の間から抜け落ちてゆく。 斉藤さんは、まっすぐな瞳であたしを見た。 「それじゃあ、いつまでたっても前に進めないよ」 胸を突かれる。彼の言葉はきびしいけれど正しかった。あたしは力なく、こくりと首を縦にふって肯定する。 「分かってる」 だから、あたしは現実に向き合おうとした。斉藤さんと、ちゃんと話をしようと思った。 「イイコだね」 斉藤さんは目をほそめ、ぽんぽんとあたしの頭をなでた。その父親のような温かい眼差しが痛くて、顔を背けてしまう。これ以上、あたしの心の中に入ってきて欲しくなかった。斉藤さんはおもむろにコートの内ポケットから黒い皮革の手帳を取り出す。そして何かを書きとめると、その頁をびりびりとちぎった。 「でも、やっぱりこれは受け取ってくれないか?」 みると、それは斉藤さんの携帯電話の番号だった。あたしは眉根を寄せる。この人は、まだあたしに期待しているのだ。ママに会わせることはできないと言ったのに。 「本音を言えば、美雪に会わせてほしい。だけど、夏姫だけでも俺に会いたいと思ってくれるときがあったら、嬉しいんだ」 そう言われると、あたしも断る理由がない。彼は確かに、あたしの父親であるのだから。その紙切れをしぶしぶ受け取ると、斉藤さんは満足そうに目をほそめた。この人は、あたしのことを完璧に自分の娘だと認識できているようだ。それでも、あたしには父親という存在はよくわからないままだった。 「それと、これもあげるよ」 思い出したようにコートの内ポケットを探った斉藤さんは、あたしの手のひらにちいさな箱をのせた。最初に見えたのは、毒々しいほどのショッキングピンク。次に、アメリカ菓子を思わせるポップなイチゴのイラストが目に飛び込んでくる。それは――― ストロベリィ・ガム。 ぎょっとして斉藤さんを見上げる。目の前のあたしの父親は、ゆったりとした笑みを浮かべていた。 「俺の好きなガムなんだけど、夏姫も食べてみるといい。世界がぶっ飛ぶよ」 「……ありがとう、ございます」 真っ白な頭で、あたしはどうにか返事をする。 ストロベリィ・ガム――あたしが幼いころから愛していた、わざとらしいイチゴの匂いがするガム。濃厚なあまさは一度食べると癖になり、すこしでも切らしてしまうとイライラしてしまう。あたしの頼るべきもの。頼らなければならないもの。 それは依存の始まりでもあった。 ――俺の好きなガムなんだけど、夏姫も食べてみるといい。 知らないうちに、あたしはふたりの真似をして育っていたのだ。そのことに、あたしはけっこう打ちのめされた。 もう、ストロベリィ・ガムは愛せない。 それが誰かの真似事でしかないのなら、あの気だるいあまさを今すぐにでも忘れたかった。 夕方から降り出した雨は、はげしさを増している。このまま雨がやむのを待つことは絶望的で、もう意味なんてなかった。 雨はきらいだった。足元が濡れるし、手はかじかむし、ママを見ている時みたいに、やるせない気持ちになるから。 ほんとうの意味で、ママがあたしを見つめ返してくれることは一度もなかった。 「傘、買ってくるよ」 痺れをきらした斉藤さんはそう言って、雨のなかを駆け出して行った。人は、どこまでやさしくなれるのだろう。あたしが斉藤さんなら、自分の些細な願いをも叶えてくれない娘に、やさしくできる自信なんてない。これ以上やさしくされてもつらいだけだった。やさしさは時に痛い。転んでけがをするときよりも、ずっと。 冷たい雨が降りしきる中、あたしはのろのろと街を歩き出した。 なにかがひどくゆがんだ方向に進んでいる。 はげしい雨に打たれながら、あたしは必死に考えを否定し続けた。あたしは最初から何も欲しくなかった。何も持ちたくなかったのに、気がつけば、手の中は失くしたくないものであふれかえっている。いつの間に、あたしはこんなにも失くしたくないものを手に入れてしまったのだろう。わからない。募るのは後悔ばかりで、泣くことも、謝ることもままならなかった。 雨に打たれて、握り締めていたあの人の電話番号は滲んでしまっている。そこに書かれている文字はもう読めない。気安く電話などできるはずがないのだ。最初から。憧れ続けていた父親なんて、あたしには幻にすぎなかった。そっと手のひらを開いてみると、ぼろぼろの紙切れに対して、ストロベリィ・ガムのビニール製のパッケージは、懸命に水滴をはじいていた。ぐしゃぐしゃに濡れそぼった紙切れと、雨をはじくストロベリィ・ガム。それはまるで、今までのあたしの姿のようだった。 傘も差さずに歩いているあたしを、通りを行く人たちが不思議そうにみる。 雨が痛い。あたしは、そんなことでさえ知らなかった。雨が降ったら傘を差して、風が吹いたらコートを着て。あたしはぬくぬくとした環境で育った、何も知らない無力な子どもでしかなかった。 コートのポケットに入っている携帯電話がふるえている。聖からなのはわかっているけれど、出る気にはなれなかった。 それほどまでに、打ちひしがれていた。 マンションの入り口にいた聖は、あたしを見つけるなり携帯電話を閉じて、ビニール傘を差して駆け寄ってくる。 「夏姫、大丈夫か?」 頭がぼんやりする。よほど顔色が悪いのか、聖は心配そうに顔をのぞきこんできた。聖が待ってくれていてよかった。一気に力が抜けたあたしは、そのまま彼に倒れるように寄りかかる。 「夏姫?」 聖は慌ててあたしを支える。 その腕にしがみつくと、こらえていた涙が止め処なくあふれ出した。 「ごめっ…」 もうすぐ離れていってしまう聖に、迷惑なんて掛けたくなかった。そう思っていても、聖がいなければ立てないあたしがいる。聖はそんなあたしを落ち着かせるように、雨に濡れている髪をそっとなでた。 「いいよ。泣きたいだけ泣いたらいい。夏姫は頑張りすぎなんだ」 決して美しい雪には変わらない、冷たくはげしい雨の中。 あたしは深い消失感と共に、永遠にパパと呼べなかった人のことを思い出していた。 |